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本編部門 08 この狭間で

この狭間で

ペンネーム:火星ソーダ

 おばあちゃん、ごめんね。ちゃんとしたお葬式さえだせなかった。

 2020年の夏、私たち一家は新型コロナウイルス感染症という大津波にまともに飲み込まれてその大渦の中でまさに粉砕されてしまった。
まず、イベント会社の派遣社員をしていた兄が40度の高熱を出して寝込んだ。その看病をしていた専業主婦の母が次に倒れ、それから会社員の父とおばあちゃんに私と次々と倒れてしまった。家から出ることもないひきこもりの私には関係がないことだと思っていたのに。

 隔離のために割り当てられたホテルの一室でコロナウイルスのもたらす高熱に呻きながら、これが本当に軽症なのかと疑念と恐怖に駆られつつ生きていたいと心底から思った。慣れ親しんだはずのこの身体の異常な暴走に振り回されて、ただひたすらなる苦痛の中で生きていたいと思った。でも、今までになんど死にたいと思ったのか。いつもちょっと試してみては引き返してきた。どこか安堵の気持を手土産にして。
 今この、死という存在の深淵にまともに向き合って心底からの怖さを感じてしまった…意識が、身体を切り刻み苦痛という鮮やかな出血を伴ったリアリティと、なによりも、なによりも、この切迫した、急迫する、このなんともいいがたい実在性のありかたを、何とかして、この世の空白を言葉で埋め尽くそうとするために思考がフル回転し、それでいながら言葉ではこの痛みを塞ぎ止める防波堤にはならなかった…
 決壊していく、崩落の、それでいて、それでもやっぱり言葉でしか捉えられない、この現実的、実在的、生きている身体の自己主張と死への恐怖に私はただひたすら耐えるしかなかった…
 なぜ怖いのだろう。どうして震えるのだろう。理由も原因もわからない。何かまだこの世に期待しているの。何か無念があるの。なにもない、なにもないはずなのに。したいことがあった。そんなんじゃない。ただ単に死ぬのがこわくて。ここで死んだら私の人生なんなのと思った。悲しかった。こんな終わり方するのが虚しいと思った。人並みの生活にまだ未練があると気づいてしまった。神さま…神さま、と簡単にいってしまった…神的な存在に祈り願う…祈り願うのだけれどもいったいどんな存在に対してひれ伏しているんだろう。単一の創造の神でも、八百万の神々ですらなく、ましてこの世を支配する善と悪の二大原理を信奉しているわけでもないというのに。
 ただただ…単に悲しくて、この世の中ですりへって、やつれていくばかりの現身の、この仮の住まいに、失っていく喪失の…
 ただ命を失いつつあることが、そのことへの悲しみが、まるで、生きるということが当たり前だとでもいうかのごとき傲慢と、生きることのリアリティに対する侮蔑に染め上げられた、人としての歪みでしかないとしても、なにか、なにか、この悲しみに…共鳴し、共に感じて、案じてくれる超越的な存在を思い描いて…
 お母さん…いや、おばあちゃん…私にとってはそれはおばあちゃんだった。
 子供のころおばあちゃんが優しく頭をなでてくれたように…神さま、私を抱きしめて背中をさすって私のすべてを許して。神さま、あなたの思いを、おばあちゃん、何もかもあなたの心のままに、あなたの笑顔だけが私に生存の、生きている意味を与えてくれる…それが、どれほどまでに偽りと嘘と、現実に裏切られたとしても、民族の記憶が、太古にたしかにあったにちがいない出来事が、神話として、物語として私たちを現に、支配というか…なにか思い出に深くつながれているのを感じる…

 なぜ私はひきこもったのだろう。
 父と母の夫婦喧嘩はいつも私の目の前ではじまることを思い出す…
 私の役割はただこの狭間にいることだった。二人ともどこか娘の私がその場にいることが決定的な破局へと至らないための保険になっているんだと信じていることが見え透いて読み取れた。
 喧嘩の原因はその日その時で異なるけれども結局は、様式美さえ感じるほどに定型的な生活保守と心情左翼のイデオロギー的、神学的な教義の対立が、内容のない熱戦が演じられ最終的には数日の冷戦をおいて対立がなかったことにされるのだった。そこでわかるのは父は母という家政婦なしでは生活できず、母は父という稼ぎ手なしでは自立できないというどちらも互いに相手を必要として、それでいながらにしてそれに互いに不平不満を感じているという現実だった。
 高校を中退して以来10年以上ひきこもって、行動範囲は家の中だけになっていた。
 高卒認定試験に合格して大学には入学したのだけれども入学式にさえ行かずにやめた。私には大学に行くのが罪のように思えたから。私のような人間はクズでゴミでカスなので自分自身を罰しなければならないという意味もなく低い自尊心と、こんな3流大学とどこかバカにした思い上がりが私の心のなかを出たり入ったりしていた。そんな他人には理解も共感もできない葛藤を終わらせるための、中途退学の手続きのために大学の事務室から帰る帰り道には気持がどんよりと重くなった。まるで大地に大きくて黒く深い狭間がぽっかりと口を開き、その中へと飲み込まれていってしまうようだった。やっとのことで自分の部屋に戻り、布団をかぶって耐えきれないほどの空腹によって追い出されるまで、布団にくるまりながら自分自身と世界の現実から目をそむけていたのだった。あのときだって辛かった…

 なぜ私はひきこもったのだろう。
 療養と隔離期間が終わってからはじめておばあちゃんが亡くなったことを知らされた。お葬式もなく遺灰だけが残されたものだった。
 私には私がわからない。自動販売機の機械はお金をいれるとジュースがでてくる。そんなふうに原因があるから結果があるという直線的な関係があるのではなく、悲しいことがあるから泣くんじゃなくて、まるで私の経験は私の内側で微生物に覆われて腐敗していき、元の姿を失ってから、はじめてそれがどれほどにくさいのか、なくなってから自己の存在を主張するとでもいうように感じる。全ては崩壊していく中での一過程なのだろう。完全に溶解して、姿形がなくなってからその存在を主張するのだ。
 なぜひきこもったのだろう。当時から何でなのかずっと考えてきたけれどもよくわからなかった。
 私には私がわからない。多分なにか心の中で求めてきたものと現実がちがったからだったんだと思う。そんな心の中で求めてきたものなんて、スーパーヒーローになりたい、例えばプリキュアになりたいとでもいうような、とても陳腐で即物的で俗悪でさえであって、あまりにもありふれているので口にだすことさえはばかられるというのはわかっているんだけれども。それでもやっぱり強くて、美しくて、賢くて、正しい<私>をどこか追い求めていた。そんな思い上がりが私を理想と現実の間の苦しみの狭間に突き落とす、と同時にその苦しみの全てに耐えうる力を与えてくれたのだったと今にして思う…
 家のコロナ騒動が一段落してから自分から行政のひきこもり支援センターに相談に行った。最初の面談の時の気分は理屈や言葉では表現できるものではなかった。他者といることがこんなに苦しく思われるようになるとは以前なら考えもしなかったにちがいない。身体と心の奥底が拒否反応を示す。ひたすらにただ怖い、恐怖と不安だけがある。ひたすらにただ不安を感じる。自分のなかのことわりが自分を否定している。ちゃんと生きてこなかった、ちゃんと生きれなかった。ちゃんとしなければと思うのに。今この瞬間にちゃんとできていない自分を強く意識する、自分がどうしようもなく弱い立場にいることを強く強くひたすらに強く意識する。そんな意識のありようの中で不安と慄きの感情の流れに翻弄されてしまった…
 楽な生活をしていたのか、逃げていたのか、今ならこの立場ならそう思うかもしれない、でも当時の自分ならちがうというでしょう。今も苦しいと思う、でもあの時もあの時なりに苦しかった…

 コロナはおばあちゃんを連れ去っただけではなく私たちの生活を二度と元には戻れないほど完全に変えてしまった。父はコロナの後遺症で少し歩くだけでも息が上がるようになってしまい退職せざるを得なくなってしまった。その結果満額の退職金をあてにした住宅ローンも払えなくなり、家を売って私たちは賃貸アパートに引っ越した。兄はイベント自粛の中で仕事がなくなり休職状態になってしまった。母は短時間のパートに出ながら父の介護をしている。私は介護施設で清掃の仕事をするようになりそれが一家の家計を支えている。アパートの一部屋はついたてを置いた奥が女部屋で手前が男部屋だった。

 まるでなにか夢のような気がして仕方がなかった。
 一家の大黒柱になってしまった…でもこれがいつまで続くのか、ずっとなのか、それとも今だけなのかもよくわからなかった。そして今や兄が飲む一缶のビールにすら神経過敏になる私がいる…
 心の中のどこか遠くから何かが崩れ落ちてくる音がする…
 神さま…意味を与えて。この荒漠とした生活に、砂をかむような日々に、空しいと感じてしまう努力に、この寂しさに、この築く先から崩れていく生の崩壊感に。
 神さま…おばあちゃん、ねぇ大丈夫だって言って。まだまだやれるって言って。そうしないと私、また心が折れちゃうかもしれない…いえ、わかっている。二度とあそこには戻らないって決意しているのを。だって何かをつかんだから。私信じているの何か漠然としていてよくわからないことを。多分、私少し狂っていると思うんだけれども。何かを確実につかんだから二度とあそこには戻らない。でもこの音は怖いわ。ねぇ、おばあちゃん、側にいて。
 この身体の奥底から響いてくる、世界が崩れ去ろうとしている崩壊感から私を守って。おばあちゃん、私の手を離さないで。どうか飲み込まれていかないように、私の手を離さないで、この狭間で。

 




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Opinions

  1. Post comment

    読んでいて辛くもなりますが、興味深く読ませてもらいました。実話なのかフィクションかはわかりませんが、引き込まれる文章でした。

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