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本編部門 06 あかるいみらい

あかるいみらい

ペンネーム:田中非凡

 名付けられた瞬間に、それから離れていくような気がすることがある。
 ここはかつて私の居場所だった。でも、もう違う気がする。確かにここの場所に何度も助けられた。ここがあるからこそいまの私があると言ってもいい。それなのに、もうここは私の場所ではなくなっている。
「最近、ここにいるとさ」
 隣に座っている、というかほとんど眠っているような、斎藤が言った。
「時間が止まっているような気がするんだよな。来たばっかりのときはむしろようやく俺の人生がはじまった気がしたのに、時間が動き出した気がしたのに、いまではもうすっかり止まっている」
 私は斎藤の言っていることの意味が嫌というほどわかったが何も言わなかった。時間。とても不思議な概念で、いつになって捕まえることができない。いつだって私たちは時間に振り回されっぱなしだ。
「いつまでここにいるんだろうな。いつまでこんな時間が俺たちに許されているのか」
 平日の真っ昼間に、なにもせずただいる。そんなことを私たちはしている。なにもしない、ということをしている。案外これはむずかしいことだ。ただの無職だといえばそれまでだが、社会が私たちに与えた名前は社会的ひきこもりだった。そういう人たちが集まるための場所に来ている。しかしもうここはそういう人たちが二十人くらい毎日集まって、それはもう言ってしまえば小さな社会で、だからここに来ている私たちは社会的ひきこもりでもなくなっていて、自らのアイデンティティを失いつつもある。
 働きたくない、というか働けない、でもこのままではいけない。そんな漠然とした不安を私は抱えている。斎藤もその一人だ。私たちはよくそんな会話を二人でする。でも、ここに来ている他の人たちがどう思っているかはわからない。だいたいのみんながここではだらだらお話ししたり、絵を描いたり、カードゲームをしたりして遊ぶ。そんなまったりした時間がひたすら続く。それに耐えられなくなってすぐに来なくなる人もいる。
 生きていたくない、でも死にたくもない。
 そんなことをいつも思う。もうとっくに希望なんて持っていない。
 遠くの国では戦争が行われている。最近は毎日そんなニュースを見る。民間人が簡単に殺されていく。虐殺。それなのに私はこうやってのんびり生きている。どうしてこんなことが許されているんだろうか?
「死ぬときってさ」
 私は考える前に言っていた。
「怖いのかな」
 斎藤は私を見て、それから少し呆れたような顔になって、
「知らねえよ、そんなこと」
 と言った。そのあと少しの沈黙があって、
「でも、消えたいって思うことはあるよな」
 と私に同意を求めるように、あるいはひとりごとのように言ったから、
「うん」
 と私は答えた。
小さな机の周りに、五人が集まっている。私は自分の持っている手札を見て、その中にあるジョーカーをあえて目立つようにする。
 大人になってからこんなにトランプをするとは思っていなかった。
 ここに来るまでは、幼いころに学校とかではたまにやっていたと思うが、しかしそれ以来まったくと言っていいほどしてこなかった。大人になってからはもうやらないと思っていた。しかしもうここでは話題がつきたらとりあえずゲームをしている。それは決して悪い気分ではなかったが、不思議な焦燥感も生まれた。
 こんなことをしていいのか?
「またこんな意地悪なことして」
私の持っている手札を見て、美和さんは呆れて言った。目立っているジョーカーではなく、その隣の普通のカードを引く。
カードゲームをして、たまに盛り上がって、みんなでわいわい楽しくやる。それはそれでいいことだった。それなのに、いまではもうすぐにやめたくなっている。どうしてこんなことをやっているのか、まるでわからなくなる。
 働かなくていいのか?
 すぐにそんな言葉が浮かぶ。自分にだけ向けられているのならまだいいが、しかしきっとこんな言葉は周りにいる似たような状況の人たちにもいずれ向けてしまう。自分のことを棚に上げて、周りの人を心のどこかで見下している自分がいることにはとっくに気づいている。
 カードゲームは続く。もちろん終わりは来る。しかし明日になったらまたはじまる。これはいったいいつになったら終わるのだろうか。死ぬまでするわけにはいかない。そんなことはここにいる誰だってわかっているはずだった。それでもほとんどの人がここを出ていくことができていない、働くことはなかなかできない。私だってそれは同じで、もうここにはじめてきてから気がつけば五年という時間が経っていた。
斎藤とはいつも一緒にいた。はじめて話したときから、この人とは仲良くなれるかもしれないと感じた。
「誕生日が怖くなったのっていつからだった?」
 斎藤の話題はいつも突然で、その前提が共有されているかのように話す。しかし私としてはそれでなんの問題もなかった。だいたいの文脈を私たちは自然と共有していた。
「高校を卒業してからかな」
 そっか、やっぱそうだよな、と斎藤は呟いて、それから、
「三十歳まで自分が生きるって、考えたことなかったな」
 と言った。
 私たちは同い年で、あと数カ月でちょうど三十歳になる。それなのにほとんど労働経験がない私は、どうしても昔の同級生と自分を比べてしまう。
「もう俺たちに残されているのって、今すぐに死ぬか、それとも惰性で生きるか、そのどちらかしかないよな」
 私は自分自身の人生に、それほど絶望することもできていない。もちろん、子供のときに夢見た未来とはまったく違う。それでも、どこかで自分なんてこんなもんだという思いだってあったし、そもそも夢見た未来なんてものがあったのかすら怪しかった。
「二人でなに話してるの」
 利用者である美和さんが話しかけてくる。私たち二人はここでも明らかに浮いていて、だから話しかけてくれるのは美和さんくらいだった。社会に適応できない人たちを集めると結局は小さな社会が出来て、そこでまた適応できない人たちが出来てしまい、より孤独を感じる人がどうしてもでてくる。私はそういう人をたくさん見てきた。
「別に、いつも通りですよ」
「いつも通りってことはロクな話してないのね」
 そう言って笑う美和さんはかわいく魅力的で、どこでだってやっていけそうに見える。でも、ここにいるということは何かを抱えているのだろう。
「あいかわらず失礼なやつだ」
 斎藤はそう言ってるが、しかしどこか嬉しそうだった。
「どうです、帰りに喫茶店でも行きませんか」
 美和さんが誘ってくれる。いままでも三人で帰り道にどこかに寄ったことはある。最近は喫茶店が多かった。いいよ、と斎藤が言う。そして私の方を見る。
 こんなことをしてていいのか?
 ふいに、そんな言葉が私の頭に浮かぶ。喫茶店には行きたいと思った。それなのに、そう素直に言うことができない。
 私は早く死ぬべきなんじゃないか?
 声がする。それは私の声だったり、ぜんぜん知らない人の声だったりする。
 何の生産性もない人間は早く死ぬべきだ。
 私が一番嫌いなはずの考えが浮かんで頭の中からこびりついて離れない。違う。こんなことは思わなくていいはずだ。
 お前は生きている価値がない。
 いつか誰かに言われた言葉。本当はみんなそう思っているんじゃないか? 目の前にいる斎藤だって、美和さんだって、本当は……。
「……どうしたの?」
 黙っている私を見て美和さんが言った。私は気づいたら涙を流していた。それがいったいどういう類の涙なのか、まるでわからなかった。
 涙は不思議と止まることがなかった。ただ淡々と私は泣いた。子供のように全身を使ってなくことはできなかった。悲しいのかすらもわからなかった。
「泣くなよ」
 斎藤はただそれだけ言った。どうして泣いているのかは聞かなかった。まるでその理由がわかっているかのようだった。
 生きたい。
 小さく、それでもはっきりとその言葉は私の心の中で響いた。
 生きたい、生きたい、生きていたい。死にたくない。
 気づいたら私はそれを声にしていた。遠くにいる他の人も私が泣いていることに気づいているようで、少しずつ周りがざわついているようだった。スタッフの人が近づいてきて、大丈夫? と言った。
 大丈夫です。
 そう言ったのは美和さんだった。気づけば美和さんの表情も変わっていた。私をまなざす美和さんは、いまにも泣きそうであった。
「つらいよね」
 美和さんは、それだけ言って、私の手を握った。つらい? そうか、私はつらいのか。私はそんなことすらわかっていなかった。
「ずいぶんとセンチメンタルだな」
 斎藤は吐き捨てるように言った。それから少し笑って、
「お前の泣き顔は見たくないけれど、でも、泣けるときに泣くことは大事なのかもしれない」
 と言った。
それから、私たちは喫茶店にいる。数時間前に私が泣いていたことなんてまるでなかったかのように、普通にくだらないことを話している。
 きっと明日もくだらないことで笑いあう。でも、こんな日々はずっとは続かない。いつか終わりが来る。それはきっと予想もしない結末として来る。一年後の私たちがどうなっているのかなんて誰もわからない。
 笑ってしまうくらいに日々は不安定だ。明日戦争で死ぬかもしれない。あかるいみらいなんてないのかもしれない。それでも私たちは生きる。希望の光がなくても、生き続ける。
「私はこういう日々も悪くないって思ってるよ」
 美和さんが言った。
「失われた青春を取り戻している気分で。だって、学生時代は放課後に喫茶店に友達と行くなんて、したことなかったし」
「そうだな」
 斎藤が言う。
「なんだかんだ楽しんでいる。この毎日を。嫌気がさしながらも、楽しんでいる」
 二人がそんなことをまるでひとりごとのように言って笑うから、私はたまらなくなって、また涙がこぼれそうになったが、それを必死にこらえながら、
「そうだね」
 と言って笑った。その笑顔があまりにいびつだったから、二人は私を見て笑った。




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Opinions

  1. Post comment

    うちひしがれた中にも優しさや共感があって、悪いことばかりではないのが人生だし、そこにはきっとそれぞれのそれなりのあかるいみらいはあるのだろうと思いました。

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