文学大賞 本編部門12
作者:ふき
肌寒くなると庭にメジロがやってくる。うぐいす色の丸みを帯びた小さなからだの鳥で、目の周りを囲む白い羽毛から目白、つまりはメジロの名前の由来になっている。ツバキの枝から枝へとちょこまかと飛びまわったり、モッコウバラの茂みに覆われたフェンスをくぐって遊んだりする。曲がりくねるキウイの枝がお気に入りなのか、その上でじっと動かないときもある。たまらなくかわいい。ガラス戸からメジロを眺めるのが毎年の楽しみである。
車の往来が盛んな住宅街の庭によくもまあと、初来訪のときには心躍ったものだった。どうやら寒くなると食料を探しに来るらしく、それならばと輪切りのミカンを置くと、それからは頻繁に姿を見せるようになった。今では観賞用の餌台として、ミカンを置くための板を乗せた脚立を置いている。
庭に来ると、ちぃーちぃーと鳴くからすぐに来訪がわかる。天敵を呼び寄せるかもしれないのに、どうして庭で鳴くのだろうと最初は不思議だった。けれども観察を重ねると、おそらくつがいのメジロ相手に呼びかける声なのだろうという考えに至った。しかしながらどうもミカンを食べ尽くした時も、ちぃーちぃーと鳴いて、新たなミカンをおねだりしている気がする。どちらにせよメジロの声にまんまとお呼ばれしてしまうのが秋冬の日常になっている。
メジロはミカンをついばむとき、きょろきょろと何度も辺りをうかがう。そしてひとくち食べては、また同じ動作を繰り返す。時には緊張が漏れるかのような、か細い鳴き声を出しながらミカンをついばむときもあった。もう少し気楽に食べてくれてもいいのにと思いながら、どこかその姿に親近感が湧く。けれどもそれほどに周囲を警戒するわりには、ガラス戸一枚向こうで見ている私の存在には気づくことは滅多になかった。
だがある雨の日のこと、メジロが私に向かって鳴いたことがある。外気の寒さが家の内まで感じられる日のことだった。ふと庭の方を見ると、まばらに葉が残るキウイの枝で、冷たい雨にうたれるメジロの姿が目に飛び込んだ。寒かろうなと様子をうかがっていると、メジロは餌台に移動してミカンをついばむやいなや、ガラス戸の私の方を向いて、いつにも増して甲高い声で激しく、ちぃーちぃーと鳴き始めた。こちらの姿は見えていないはずだ。けれども、何かを必死にこちらに訴えているようで、私は目を離せなかった。しばらく鳴き声は止まなかった。その鬼気迫る姿、生きることへの懸命さを小さなからだ全身で表していた。
今もあの光景が脳裏に刻まれている。あのとき、メジロが全身全霊で鳴いたように、私もどうにかして鳴きたくなった。鬱屈を晴らすような叫びを。
*
散乱した部屋の惨状を見るだけでも、自分は本当に何もできないのだと思わされる。棚には物が乱雑に押し込まれ、季節外れの脱ぎ捨てられた服が幾重にも積まれる。机上にも物が散らばり、そのひとつの古本はいつ栞を挟んだものかすら定かで思い出せなかった。机の下には、黒いビニール袋が何枚も放置されている。いつしか部屋の片付け用にと用意したものだ。袋の中から何年も前のカレンダーがちらりと姿を見せていた。床下には積まれた段ボールがあって……。書き出すときりがない。ずぼらが過ぎていた。
それでもそこまで部屋が汚いというわけではない。普通の人ならば半日もあれば片付けられる量。それをもう何年も前から処理できずにいる。自分の生活力というものがいかに崩壊しているかがわかる。片付けようにも頭がへとへとで眠気に耐えられず、ベッドで横になってしまう。これは何をやるにしても同じだった。こんなことすら処理できない自分の不甲斐なさに毎度押しつぶされそうになるが、そんな苦しい心を溜息をはらんだ深呼吸でいなす所作にも慣れたものだった。
今更の人生の望みといえば、自らが生きていくための最低限の生活がしたいだけだ。世間一般でいう当たり前の生活は難しいかもしれないが、少しながらでも働いて、質素な生活の中で趣味を楽しむ。ささやかな暮らしを送りたい。できればメジロを眺めるように、季節ごとの楽しみを見つけて、季節の移り変わりをしみじみと感じて……。
周りから見ればそれぐらい今すぐやればいいと思われることだろう。私もそう思う。甘えに怠けに先延ばし癖、そこは大いに自覚している。だからそれを正せばいいだけなのだ。ありがたいことに今は在宅の仕事がいくつもある世の中だ。なのに、すべてがままならなかった。最低限やらなければいけないことはわかっているのだ。まずは自分のため、自分一人のためだけに動き出せればいい、そう思っているだけで時間が過ぎていく。心中に鬱屈が積もっていくだけの日々だ。私はどうすれば動き出せるのだろう。
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そういえば、あの雨の日の後、メジロの雨宿りになればと、屋根付きの小さな餌台をつくった。百円均一の店でのこぎりや釘、木材を買ってきて慣れない工作をした。不器用で容量が悪いから、足りないものは買い足しに何度か出向いて、何日もかけてようやく完成させた。自分のことは何もできていないのに、メジロの手助けになればという善意からの行動だった。
もしかしたらそれが私の行動の小さな源泉なのだろうか。メジロの声が聞こえると、ベッドから立ち上がり、庭をのぞきに行ける。メジロのためになら、餌台にミカンを用意できる。水場もいるかもしれないと鉢皿に水を入れて置いたこともあった。自身でやらなければいけないことは山積みで手を付けられないのに、優先して動ける何かがそこにはあった。
今まではこんな現状だからこそ、まずは自分のことだけを優先して生きようとしていた。今は他者というのは自分の行動の負担にしかならないのだと。でもそれが間違っていた。他者のためにという高尚なものではないかもしれない。けれども、他者の存在が、自分が動き出し得るきっかけかもしれないと、今になって考えに至った。思い起こせば幾つも思い当たる節があった。ようやくだが自分のことがわかってきた気がする。
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メジロの姿や声を一度意識すると、彼らは一年を通して、身近にいる野鳥なのだと感じる。
去年は春先に姿を何度か見かけた。一度は白い糸くずのようなものをくわえて、モッコウバラの枝にとまっていた。巣作りの最中だろうか。どうやら庭を中継地点の休憩スポットしているようだ。
今年は夏にもやってきて、なんと子育てをする姿を間近で見られた。ようやく羽毛が生え揃ったであろう雛鳥を一匹だけ連れて来て、口移しで餌をあげていた。雛鳥はまだ枝に留まるのが苦手なのか、キウイの枝に捕まりながらも必死に翼を羽ばたかせてバランスをとりながら、ちぃーちぃーと親鳥を呼ぶ。なんとも愛くるしい姿だった。
年月を重ねるごとにメジロとの生活に馴染んでいく。もう家族のようなものだと思っている。
また肌寒い季節が近づく。まもなく私に呼びかける声が聞こえるはずだ。私は立ち上がり、ふらふらと歩き出すことだろう。もう大丈夫。さあガラス戸をあけて餌台にミカンを置いてやろう。