文学大賞 本編部門01
作者:はぎ
塩山(しおやま)ばびこは目を閉じながら、電車が終点駅に滑り込むのを見ていた。目蓋がほとんど閉じているみたいに周囲は暗く、視界にピントが合わない。
ここに終点なんかあるはずがないのに? ばびこは不審に思った。瞼が重く、体が動かない。ばびこは電車の座席に座っていて、背中から細かな振動が伝わる。遠くで人のさざめく声がする。雑音、声量は次第に増していく。
そして目を覚ました、ばびこは座っていた。あかあかと燃える夕陽の差し込む、薄闇の電車の中にいた。乗客はまばらで、濃く影を落とし揺れている。
電車は走り続けていた。窓の外を、異常な色合いの赤が流れる。
ばびこは中学校の制服を着ていた。半袖ブラウスに簡易ネクタイ、紺のスカートの下からジャージの裾が覗く。胸ポケットの感触が気になって、取り出すとリップモンスターが一本出てきた。
「目が痛いと思いませんか」
隣に座る影が喋った、目付きが虚ろで大人の女だ。
「あの月、目が痛くなると思いませんか。私はとても耐えられない。あれは人工物なんです、都合のいい面だけを見せてくる」
女はばびこに顔を向ける、表情がどこか荒んでいた。半袖ブラウスを着ていて、簡易ネクタイを止め、口元にほくろがある。
「目が痛くなると思いませんか」
「私…は、」
「目が痛くなると思いませんか」
「…ここは、すみません、ここはどこですか。私は山手線に乗っていて、夏期講習が終わって家に帰る途中で、」
「目が痛くなると思いませんか」
「別に、大丈夫です」
「こんなに眩しいのに。おかしいんじゃないの貴方」
ばびこは席を立った、車両を移動することにした。途中、揺れでふらつき、吊り革にしがみつく。優先席に座る老婆と、見下ろしながら向かい合う形になった。
老婆はヘルプマークをつけた杖を握り、ばびこと同じ制服を着ていた。口元にほくろがあり、表情が鈍い。プリーツスカートの上に、紙の新聞を載せている。
『月面探査機ブーブル、月の裏側に人骨を発見 関東経済新聞』
老婆は顔中のシワを捩(よじ)らせ、虚空を見つめて喋った。
「これ、貴方でしょう?」
★
ばびこはそこで目を覚ました。心臓がバクバクと脈打って胸が痛い。
自室の学習机に突っ伏して、眠っていたようだった。辺りは薄暗い。少し痺れた手の平に、何か硬い物が乗っている。
『あんた一体何を考えているの!! 絶対にどこかおかしいわ!』
壁を隔てた先で、母親の金切り声がした。ガシャン、ガシャンと物が割れる音が続く。
『ぎゃっ! ほらっ、またそうやって暴力っ、お母さんは怖い、怖いわ!! お父さーん、お父さん助けてーえ、ばびこが! ばびこがおかしい! 頭がおかしいわぁー!!』
ガラスの割れる大きな音と、悲鳴が重なる。
かつてばびこは中学受験をした。両親ともに中高から私立を出たので、特に誰にも疑問は無かった。ばびこの精神が徐々にバランスを欠いて、不登校気味になっても、まだ誰にも疑問はなかった。
ばびこは手の平の硬い物を掴んだ。形状は水道の蛇口のそれに似たバルブで、軽い力を掛けるとバルブは回る、栓が開く、開栓した。きゅっと擦れる音が鳴る。直後、肺が潰れて重力に引かれる。
濁流と共にばびこはパイプを抜けて、排出され世界を突き抜けた。意識が裏返る。空気は黒い、視界が黒い、自分も黒い。
顔を上げると乗客が消えていた。
灼けるような赤い陽が差し込む、電車は揺れながら走り続けている。
目の前に座っていたはずの新聞を持った老婆も、影の乗客たちも全て、跡形もなく消えている。
「これは、貴方のことよ? これは貴方の新聞記事なの。約100人に一人、思春期の子供にはこういう事が起こる」
存在しないはずの老婆の声は掠れながら続く。
『全ては、象徴になったのよ。全てがメッセージに変わっていく。これから貴方が見るもの、聞く音、関わる人の仕草、雑音までその全てが、貴方への嫌がらせ』
ばびこは両手で耳を塞いだ。つり革の持ち手が揺れている。臙脂色のベロアを濃く染める座席は左右に、永遠に続いている。
ふと車内が陰り、見ると巨大な月球が、宙に浮いて窓の外に迫っていた。岩石の表面を見せながら、世界を陰らせて月球は窓を覆う。全身から力が抜け、床に沈んでめり込んだ。月球に敷き詰まるクレーターは、滲みだす光でぬめるように光る。私はあなたの病です。
発光するクレーターに覆われた巨大な月球は轟々と宙に浮き、不安定に揺らいで視界を陰らせる。
足や尻から床に沈んでめり込んだ。発光する月球を見てしまって両眼が脳に向かってめり込む。はじめましてばびこ、私はあなたの病です。月球は永遠に後を追ってくる。
学習塾の記憶は、夕陽の射し込む小さな部屋に詰め込まれ、古い冷房器具が埃臭い空気を吐き続けている。
目を閉じると、目蓋の裏がただ赤い。
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ヒステリックな親より、「はじめまして」と丁寧に語りかけてくる病の方が優しいと感じました。
Permalink絶望を生々しく描写なさっていて、白地に黒い文字しかないのに赤が見えてきます。