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文学大賞 本編部門08 医者の卵 作者 西小路無為

引きこもり文学大賞 本編部門08

作者:西小路無為

 大学医学部での一年目は座学の講義が中心ということもあり、何とか無難に学生生活を送ることができた。
 ところが、二年生になって解剖実習や組織学実習といったものが始まると、少し雲行きが怪しくなってくる。ここで医学生としての自らの適性に疑問を感じる事態に遭遇することとなった。
 解剖実習で初めてホルマリン漬けのご遺体を見たとき、その場で嘔吐してしまい、自分が医者に向いていないことを悟ったのだった。
 指導教官は慣れればどうってことないと、その場でこともなげに言った。
 その時、血の気の引いたフラフラ状態の僕を介抱してくれたのが、女性の同級生だったことも、僕のプライドをひどく傷つけた。
 人はご遺体を見るたびに精神が成長するか、おかしくなるものだと、誰かが言っていた。いや、どこかに書いてあったのを読んだことがある。
 しばらくすると、不眠に悩まされるようになった。
 理由は明らかだった。
 床に就くと、なぜかあの解剖実習の場面がフラッシュバックしてくるのだ。
 苦労して入った医学部。僕は結局、医学には向いていなかった。
 絶望感と自己嫌悪。同級生の中で脱落者は僕一人だけ。
 自分の中で何かが崩れ去っていくような気分。
 自然と大学に足を運ばなくなっていた。
 そして自分の部屋にずっとこもるようになった。

 それでも、一人暮らしの身なので食材や身の回りのものは自分で買い出しに行かなくてはならない。
 人の目線を意識せずにすむ夜しか外出することができなかった。
 この日の夜も国際通りをウロウロ。ただあてもなく歩き続ける。
 喉が渇いたので、途中コンビニで買った缶酎ハイを一気飲み。
 自暴自棄になっていた。人生の脱落者、失格者……自分を責める言葉があふれ出てくる。
 国際通りから県庁北口の交差点を右に曲がり、そのまま大通りを真っ直ぐに歩いて行く。途中大通りを抜けて、雑居ビルやマンションが建ち並ぶエリアに迷い込んでしまう。それでも、何かに誘われるかのように歩みを止めることはなかった。
 潮の匂いが鼻をくすぐる。知らない間に海沿いに向かって進んでいたようだ。腕時計を見ると、夜中の一時をちょうど過ぎた頃。
 木々に囲まれた公園が目の前に見える。入口そばの丸太の柱には『三文殊公園』と彫られた石版が埋め込まれている。
 どうも酔いが回りすぎた。少し休憩しよう。
 公園の中に入ると、ベンチを見つけるなり、すぐに腰を下ろした。そのまま身体を横たえた。
 しばらくしてから、誰かが声をかけていることに気づく。女の声だ。若いようでそうでないような気もする。
 上半身をゆっくり起こしながら声の主のほうを見た。顔はよくわからない。寝ぼけ眼と暗さのせいではっきりとは見えない。
髪の毛はすぐにわかった。全体的に茶髪で前髪だけが紫色。そばに街灯があったので、そこだけははっきり見えた。
 公園の近くには、派手なネオンをギラギラさせた風俗店やラブホテルが並んでいる。僕は女を無視して再び身体をベンチに横たえた。
 すると、女は僕が寝ているベンチの空いている部分に腰かけた。しかも僕の頭に近いわずかな隙間に。汗と香水の混じった匂いが鼻をつく。
 僕は思わずジャケットの内ポケットに手をやり、財布のありかを確認する。あるある……急に安堵の気分が広がる。
 シュッとライターをつける音。女はたばこを吸い出した。煙の匂いが僕の顔を包み込む。汗と香水と煙草の匂い。仕方なく起き上がることにした。
 女は黙ったまま僕に煙草の箱を差し出した。僕は手を払うふりをして断った。
 女はかなり短いスカートをはいていた。足を何度も組み直した。左側の太ももの内側に描かれた小さなタトゥーが目に入る。
 三匹の猫の顔が並んだイラストのようなものだと気づく。僕はずっとそこに見入っていた。女が再び足を組み替えると、三匹の猫の顔は隠れてしまった。
「お金あるの?」
 女が先に口を開いた。
「少しなら」
 僕がそう答えると、女は急に立ち上がった。
 煙草を口から離し、地面に放った。
 僕はその一部始終を見て決心した。
「やっぱやめとく」
「ふん、意気地なし」
 女は舌打ちすると、その場からいなくなった。

 確かに僕は意気地なしだ。医学の道も無理だった。
 あの女と寝るためのお金が惜しかったという思いもある。
 お金目的で誘われたことも僕のプライドを傷つけた。
 童貞のくせしてそんなことを言う資格などないことはわかっている。
 でも、欲望や快楽だけで生きているのではないと、自分自身思いたかった。
 でも少し後悔していた。

 この頃になると、少しずつ昼間も外に出るようになった。
 この日はコンビニやスーパーで一週間分の買い物などを済ませる。
 今日は市内のあちこちで、沖縄返還五十周年記念の行事が行われていた。
 行事そのものの中身よりも、会場周辺で基地反対派のデモ隊やプラカードを持った人たちのほうが断然目立っていた。
 参加者を見る限り若い人は少なかった。ほとんどが中高年のお年寄りばかり。
 あの人たちは本当に幸せなんだろうか。
 こんな昼間から、なんのために頑張っているのだろう。
 彼らの思いを理解するには、僕はあまりに未熟すぎた。
「米軍は沖縄から出ていけー!」
「沖縄に基地はいらないぞー!」
 デモ隊のプラカードの合間に、各労働組合の名前が書かれたのぼりも風に揺られている。その中のひとつに僕は目を止めた。
 ――『沖縄米軍基地労働者組合』――
 米軍基地に勤めている人たちが、米軍基地はいらないと叫んでいる。
 自分たちの雇用の場をなくしてでも、沖縄から米軍が出ていってほしいってことなのか。
「おまえら、米軍から給料もらっているくせに、偉そうなこと言うな!」
突然、僕の近くにいた中年男性が大声で叫ぶ。
「おまえらに基地反対を言う資格はない!」
  隊列の中にいた中年女性が列から離れ、大声で叫ぶその男性のもとへと近づいていく。
「今、おまえが言うたんかっ!」
 女性の剣幕も相当なものだった。
 女性とヤジをとばした男性が言い争う中を、まわりの野次馬が取り囲む。
 男と女は感情的な言葉で激しく罵り合っている。
 中身にもあまり関心がなかったので、その場から離れようとしたその時、大声を出していた男性が突然、地面に倒れた。
 見ている限り、殴り合いなどの暴力はなかった。ただ男が一方的に倒れたのだ。
 男性に罵声を浴びせていた中年女性は急に黙り込み、その場でおろおろ。
 心臓発作かな……瞬間的にそう思った。倒れた男性のまわりを人が取り囲む。
 まあ、あの人たちが何とかするのだろう。
 手に持っている買い物袋を持ち直して、背を向けようとしたその時、「心臓、動いとらんぞ」という声を耳にする。
 心臓が動いていない……心配停止。それなら応急処置してやらないとやばいぞ。
 僕は後ろを振り返る。まわりの人たちは「大丈夫か!」と、倒れた本人に向かってただ呼びかけるだけ。
 僕には関係ない。あれだけの人がいるんだ。僕なんかに何もできることなんてない。
「息もしていないぞ」
 僕は今の言葉を聞いて、人だかりのほうへと向かっていく。
 腰をかがめて、倒れた男性の様子を見る。身動き一つしていない。
「これ、応急処置しないとヤバいですよ」
 僕がそう言うと、一同一斉にこちらの顔を見る。
「兄ちゃん、なんとかできないんか?」
 僕は買い物袋を地面に下ろし、倒れた男性に体を近づける。
 確かに心肺停止、息もしていない。
 僕は覚えたての知識を探るように胸骨圧縮を始める。
 まわりの視線が僕に集中している。緊張のあまり手が震え出す。
 次に人工呼吸。相手は中年のおじさん。少し気持ちがたじろいだが、命にかかわることだ。胸骨圧縮と人工呼吸を交互に続ける。
「兄ちゃん、手慣れたもんだな。どこかのお医者さんかい?」
「いえ、医学部生です」
「やっぱりな」
 まわりからドッと歓声がわき起こる。
 僕は嘘をついた。医学部に籍は置いてはいるが、今は休学中の身。
 いや、そんなことはどうでもよい。
 この男性を何としてでも蘇生させなければならない。せめて救急車が来るまでに自分ができることを……。
「どなたかAEDを探して持ってきてください!」
 僕は大声でまわりに向かって叫んだ。何人かが商店街のほうへと走っていく。
 どこかの誰かが警察官と一緒にAEDを持って現れる。先ほどこの男性と言い争っていたあの中年女性だ。
「なんとかなりそう?」
「わかりません。全力を尽くすだけです」
 やって来た警察官が僕と代ろうとしたが、
「この兄ちゃん、医者の卵や。素人はじっと見とれ!」と誰かが警察官に向かって言った。
 すると警察官は動きをとめて、黙って僕の動きを見守る。
 まあ警察官だって、消防隊員同様にAED講習は受けているはず。
 でもまわりの人たちは、医学部生である僕の方を信用してくれたのだ。
 僕は慌てずAEDセットを開封し、電源を入れる。
 電極パッドを男性の胸に貼る。
 ショックボタンを押して、電気ショックを与える。
 そのたびに男性の胸が少し揺れる。これを何度か続ける。
 ピーポーピーポー! 救急車がようやく到着。
 と同時に、男性の口が大きく開き、うぐっと声を上げる。
 口元と喉元がわずかに震え出す。
「どうですか、様子は?」
 やって来た救急隊員にそう聞かれて、
「ちょうど今、動きが戻ったようです」と僕は答える。
 あとはすべて救急隊員に引継ぎ。
 僕は腰を上げ、彼らの救命処置の様子を見守る。
 そして男性は担架に乗せられ、救急車の中へと運ばれていく。
 僕は我に返ったように、地面に置いた買い物袋を手に取り、まわりを見渡す。
 みなが救急車の方へ注意を向けているのを見計らって、慌ててその場から退散する。
 後ろから誰かが声をかけてくる。警察官の一人が僕を追いかけてくる。
「あのっ、あなたのお名前を!」
 僕は走ってその場から逃げた。
***
 それから一週間後、僕は大学に復学申請を出した。




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