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文学大賞 本編部門17 『きらら』 作者 虹乃ノラン

引きこもり文学大賞 本編部門17

作者:虹乃ノラン

 六花さんと出会ったのは敦賀にある水島だった。水島は一年のうち七月と八月の二カ月だけしか渡ることができない無人島だ。
 僕は木曽の生まれで家は櫛やだった。櫛には梳き櫛、飾り櫛などいくつか種類があるが僕は飾り櫛が好きで、機能性と伝統にうるさい父とは対立することが多く修行という名目で家を出た。ゆくゆくは継ぐつもりだったがことのほか福井が気に入ってしまいもう九年になる。
 漆を始めてから、うるし会館の教室の類で駆り出されることも増えた。水島に行ってみようと思ったのは体験客から「福井に住んでるのに行ったことないんですか」と笑われたからだ。海水浴は苦手だったし混雑した船に乗ることさえ躊躇われるのに、ふとそんな気になったのは品評会に提出を予定していた器の塗りに失敗したからかもしれない。
 もともと櫛やの生まれなのだから木を扱うほうが長けていた。しかし貴重なハンサを使って平皿を作ったというのに青漆で失敗したのだ。
 僕はシンプルで薄い器が好きで、漆然とした光沢よりは少し乱反射する雲母の照りが好きだった。雲母は一般的にはマイカとかパール材と呼ばれている。漆と顔料の配合比や混練条件などを調べいかにも鮮やかな青を塗れた。それこそ水島の海みたいにきれいなブルー。それなのに乾かす工程で失敗したのだ。
 室の湿度は保たれていたが、雲母を混ぜすぎたのか予想より早く乾き始め艶を失わせてしまった。それですっかりやる気を失くし、曇った皿を見つめていると水島を思い出したのだった。
 六花さんは海水浴場でただ一人長袖のカーディガンを羽織っていた。水着の上に軽く、というのではない。着衣の上にさらに十分丈の長袖を着込んでいた。ただそれが雲母のような白で、——ああ、あんな色の皿がいい。と思わず目を留める。視線に気づいた彼女はこちらを見ると踵を返して去ってしまった。
 水島の海の透明度は高い。渡れる時期は若い観光客が多く、ハワイかと見紛うようなレイを首にさげた女性のマニキュアはやはりブルーだったりストーンがついていたりで若々しい。
 夕方の早い便で帰ろうとしているとあの女性がいた。船室に入らず一人で外を眺めている。モーターが撒き散らす飛沫を食い入るように見つめ、今にも落ちてしまいそうだ。潮風に当たりすぎると髪がばさばさになる。
「夏だとは言っても体が冷えますよ。中へ入りませんか?」
 まだ時間が早いとあって席は空いていた。
「なんか蒸しますね。冷房効いてないのかな、上着脱ぎますか」
「いえ!」
 彼女はとっさに怯えるような様子をみせた。肘を抱いてすっと肩を引く。宿はどこですかと訊ねたが答えはなく、訳ありなんだということはすぐに感づいた。
「お名前を聞いてもいいですか? 僕は唐木といいます」
「六花です。数字の六に、花と書いて」
 〝むつか〟というのを聞いて髪を見る。黒髪だが裾の方は傷んでいて、少し脱色したあとがあった。僕は素性を語った。名前に反応したのだ。
「僕の実家は長野の薮原というところで櫛やをやってます。お六櫛っていう梳き櫛があるんですがこんな話があるんです。持病の頭痛に悩んでいた村娘お六が御岳山に願をかけるとミネバリで櫛を作り髪を梳かせとお告げを受けた。で、その通りにしたら治ったっていうね」
「ミネバリ?」
「そう。櫛はツゲが有名ですけど、木曽のミネバリは硬いけど粘りがあって狂いも出ないんです。細かい歯の櫛の材料としてはとても好いんですよ」
 さっき煽られた風で六花さんの髪は少しだけ乱れていた。
「唐木さんも櫛を作っているんですか」
「いえ、今は河和田で漆をやっているんです。工房へ来ませんか」
 唐突だろうとは思ったが、六花さんは黙って肯いた。
「水目桜って樹があるんですが、皮に傷を付けると水のような油がしみ出てくるのでミズメ。僕たちはハンサって呼びますけど」
 工場へ入ると六花さんは神棚の前で足を留めた。そこには、漆を絞り取られて枯れた樹幹が祀ってあった。小さな子供の胴体ほどに切断された、黒ずんで朽ちた木の幹だ。六花さんの顔が強張る。
「ああこれは『漆の殺し掻き』って言います。というか、これは漆掻きに殺された死体みたいなものなんだけど」
 僕は軽く笑ったが、六花さんは強張らせた顔を変えることはないままにつぶやいた。
「漆かき? 殺しって」
「そう、僕たちが犯人なんだよね」
 僕の乾いた笑いに、六花さんは反応しなかった。漆を採取するとき、掻子は木に刃物で傷をつける。すると血液のように木は樹液を垂れ流す。それが漆だ。六月から九月、そして十一月にも傷をつけ漆を採り尽くす。後は枯れた樹幹を伐採するのみ。だから『殺し掻き』という。最後の一滴まで生きようとする木の生命力を否定し続けるがごとく掻き続ける。
「採取された漆は『血の一滴』と呼ぶんです。だからといってはなんだけど、一滴一滴を無駄にせず大切に使うようにと、親方の指導なんです」
 松本には漆林があり、祖母は河和田から漆掻きに来ていた祖父と出会った。子を儲けて母が生まれたが会えない期間もあったらしい。祖母が福井に嫁げなかった理由は簡単にわかる。
「どうしました?」
 ちょっと堅苦しかったかな、と思っていると六花さんが急にボタンをはずし始めた。不安げな顔で床を見つめたまま上着を脱いで腕をこちらへと差し出す。そこに痛々しい筋が何重にも刻まれていた。
 ——ああ、そういうことだったか。きっと、もう随分繰り返してきたのだろう。それは黒ずんでいて朽ちているように見えた。
「わたし……し、死のうと思って——」
六花さんは、下を向いたままその腕を僕に捧げていた。彼女はこの腕を僕にどうしてほしかったのだろう。それはわかりようはなかったが目の前にいるこの女性がとても愛おしく思えた。
 ——漆の良さは、何度でも塗り重ねられるところだ。容そのものを失わない程度の傷ならば漆で美しく装い直すことができる。もちろん僕は、パールを混ぜすぎて失敗してしまったけれど。
「脱がなくていいのに」
 僕は小さく笑うと、工房見学の人向けに陳列してあるケースの中から浮月挽のお猪口を手にとった。
「お酒、好きですか?」
 彼女が握りしめていたカーディガンを預かると、腕をとってゆっくりと着せていく。
「漆で仕上げたお猪口は唇の当たりが優しいですよ、お勧めです。これはケヤキを使ってあって表は浮月挽にしてあるんです」
「ふ、ふげつびき?」
「ここ。輪をね、ろくろと刃物を使って彫るんですよ」
 猪口の外側に入れた六本の彫りを説明すると、六花さんはその輪を指先でなぞり内に塗った朱の漆をのぞきこんだ。彼女の指が触れる。耐え切れなった僕は隠すようにお猪口をわしづかむとポケットに入れた。
「そうだ! 日本酒を買いに行きましょう」
「怒られますよ」
「はは! そうですね」
 工場を出て、僕は六花さんの手をつかんで走った。そのままいつもの酒屋へは行かずに観光客向けの土産物屋に入る。『梵』の生酒があったので迷わずカゴに入れた。すぐに中山公園に着く。
「天気の良い日は、ここはすごく星がきれいに見えるんですよ。今日はちょっとくすんでるけど」
 小高い丘へ上り腰をおろし浮月挽のお猪口に梵を注ぐ。
「美味しい……」
「もう少ししたら彼岸花も盛大に咲くんです。よかったらそれまでいませんか」
 返事を待つ間、僕は彼女の顔を見れなかった。声が震えていたかもしれない。黙って待っていると掠れた声が漏れる。「月が滲んで見える」
 弱々しさに隣を見ると、その目に涙が溢れていた。
「浮月挽だからね」六花さんの瞳に浮かぶ粒を拭う。「そんなに泣いたら溺れちゃいますよ」
「……なに言ってるんですか。溺れません」
 六花さんは恥ずかしそうにいった。
「何重に見える?」
「何重?」
「月。いや、六重かな? って思って。あんまり泣いてるから」
 彼女の眼に映る月は泳いでいるか、それとも朧月のように揺らいでいるか ——溺れてしまうのは彼女じゃなくて僕なのかもしれない。
「ねえ、どうして笑うんですか? わたし、変ですか」
 六花さんが心配そうに見る。
「なんでもないよ、ごめん、違うよ、変じゃないですよ」
 さらに可笑しくなって声を出して笑った。
 変なのは僕だ。こんな風に笑ったのは何年ぶりだろう。
 僕は唐突に櫛を作りたいと思った。すごく暫くぶりだ。漆は髪に挿す飾り櫛には良いけど目は梳き櫛ほどには細かくない。僕は丸型が好きだった。
「雲母を使った白い梳き櫛を作ろうかな」
 また失敗するかもと思いながら僕は言った。
「櫛を贈ってもいいですか」
 六花さんは黙っていた。僕は続ける。
「その腕の傷の数より、一本だけ少ない歯数の櫛を僕に作らせてください」
「来年はさらにもう一本、少ない歯数の櫛を贈ります」
「そうして櫛が使えなくなってしまう頃、その傷はなくなったことにしませんか。そうしませんか」
 続け様に言い終えると、しばらく経って彼女はぽつりと言った。「でも、この傷はまた増えるかもしれません」
「そんなことがあったら、またそれより少ない歯数の櫛を作りますから」
「でも……」
「そんなことには、させません」
「それで、その傷がなくなったら、夫婦の椀を作って贈りますよ。なんなら僕が片方使ってもいいけど。何色が好きですか? 箸は黒檀がいいな」
 隣に座る六花さんの体が少し湿ったような気がした。
「黒檀は高いから、ちょっと贅沢かな」
「全然わかりません!」
 六花さんが顔を赤くするのを見てとても楽しくなる。
「ハハハ!」
 あの晩、僕たちは四合瓶を空けてすっかり酔いがさめるまで話した。
 初めて僕が彼女の髪に櫛を通したとき、六花さんのうれし涙は雲母のようにきららと輝いた。来年は一緒に水島へ行って泳ごうと約束した。きっとその笑顔はあの澄んだ海より眩しいに違いない。《了》

 




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