Skip links

文学大賞 本編部門34 下山行 作者 野村衛

引きこもり文学大賞 本編部門34

作者:野村衛

 俺は息子に、あの景色を見せてやりたかっただけなんだ。この山の頂上から見える故郷の姿を見てもらいたかっただけなんだ。春の終わりが過ぎて、一瞬の通り雨に乾いた砂埃が洗い流され、眩しく潤った太陽の光とともに次の季節がやってくるその日。きっと今日、故郷の街が重く霞んだ大気の底からまた昔と同じ姿をあらわしてくれるに違いないと思っただけなんだ。息子、俺の息子、俺の血をわけた息子、長い月日を共に過ごした息子。たった1年と少しで老人のように老けこんだしまった息子。そのことに気づいたのはあの冬の夜だった。その冬で最初に雪の降った日だった。廊下に力なくうずくまった息子を助け起こした。伸びすぎた前髪の奥の目は俺を疑うような、恐れるような、あざけるような、淀んだ色をしていた。ひどく寒い日だった。卑屈な犬のような目つきだと俺は思った。なあ、違うだろう。そんな目をするものじゃない。肌は風雨に晒されたプラスチックのように青白く、骨のかたちまでくっきり浮き出ていた。老人のようだと思った。俺はそのまま息子の体をベッドに横たえてやって、その後しばらく黙ってその傍らにしゃがみこんでいた。手を握って、言うべき言葉を頭の中に探している間に息子はかすかな寝息を立てはじめた。死にゆく親父の手を両手に包みこんだ日のことを思い出してしまいそうだった。医者は何も言わなかった。俺にとって、父親にとって意味のあることは何も言わなかった。様子を見るしかないですな、とその老いた医師は繰り返すだけだった。いつになるんだ。いつまでそうしていればいいんだ。いつになったら俺たちはもとのかたちに戻れるんだ。そうして月日が過ぎていった。落ち着かない俺の心とはさかさまに、息子の日々は淡々と過ぎていった。「このままでいいのか。辛くはないのか、何かしてほしいことはないのか」そう声をかけても大丈夫、大丈夫だよ父さん、と感情のゆらぎのない声が返ってくるだけだった。そして昨日、俺は突然その時が来たことを悟った。あの景色が、俺が遠い昔に一度だけ見たあの景色が俺たちを救ってくれるのではないかと思ったのだ。「なあ、ここに来たのが間違いだったのか?それとも今日を選んだことが間違いだったのか?お前をつれてきたことか?」背負った息子の体は思っていたよりもずっと重かった。薄暗闇の中でやせ細っていった体とはとうてい思えなかった。丸めた背中に息子の身体をのせて、腕で息子の両膝を引き上げて支えながら俺は山道を引き返そうとしていた。ずっと下を見て、段差を下り、山道に散らばった石塊を避けながら歩いていった。しばらく行けば、助けを呼ぶことができるはずだった。何十秒かに一度、背中の息子に声をかけた。大丈夫、大丈夫だよと返事が聞こえてくると俺は少しだけ安心した。息子の額から流れる血が時々目の前に落ちていった。乾いた土に落ちた血の跡は黒黒として、虫の巣穴のように見えた。影から影へとまばらな木立の脇をすり抜け、逃げるように歩いていった。下り坂にはずむ膝に少しずつ疲労と痛みがたまっていくのを感じた。太陽の光は薄ぼんやりとして、俺の影と息子の影に見分けがつかなかった。力の抜けた小さな身体。砂袋のように重く、水風船のように頼りない息子の身体。「揺れるからしっかりしがみついててくれ」血が早く止まればいい。その分俺の汗が、血が流れればいい。「おい、聞こえてるか、もしかして眠いのか」ちょっと痛いのと疲れてるだけだよ父さん。少しずつ雲が出てきているようだったが、背中と首がひどく重くて痛くて、空を見上げることはできない。山道の砂にうつるぼやけた光は朝日のようにも夕日のようにも思えた。汗と血が混じって濡れたシャツが体にまとわりついて重かった。「もうすぐだからな、揺れて辛いかもしれないがもうすぐだ。あと少し下ったら川沿いの道に合流するはずだ。そうすればお前も俺も楽になるからな」時々息子の身体がびくんとこわばるのを感じた。段差の衝撃のせいだろう、きっとそうだと俺は自分に言い聞かせた。分かれ道もあるが迷うことはない。何度も先の見えない曲がり角を通り過ぎて、そのたびにもう少しだからなと息子に話しかけた。息子を元気づけるためだったが、その言葉は独り言のようにも聞こえた。口の中は乾ききって、上がった息に声もかすれていたことだろう。体の節々が痛んだ。何か余計なことを考えて気を紛らわせようとしても、できなかった。ただ歩き続ける動物であるほうがいいと思って、俺はそうした。一歩一歩と数えながら歩いた。少し座って休もうよと囁く息子の声が聞こえた。横になって少し休んだらすぐに自分で歩けるようになるから。「このまま歩いて行こう。もうすぐだからこの勢いで行ったほうが良さそうだ」止まれば最後かもしれないとそんな考えが頭をよぎった。一度休んで、もう二度と立ち上がれなくなるのが怖かったのだ。擦りむいて血の滲んだ息子の手のひらが目の前で揺れていた。血の赤さと砂埃に肌の白さが際立って不気味なようだった。なあ、前にこうやっておんぶしてやったのはいつのことだったっけ。その時はしっかりしがみついてくれただろう。ふざけて俺の肩にしがみついたお前の力の強さには驚いたものだった。あの時みたいにしっかり掴まっててくれよ。俺だってもう若くはないんだ。もう限界なんだ。もう少しで川が見えるってわかってるから歩き続けることができてるってだけなんだ。目も霞んできたけど、拭うこともできない。もう手も腕もこわばって動かないよ。助けが来たら誰かに腕をほどいてもらって、お前を下ろすのを手伝ってもらうしかないかもしれない。もう今はこうやって歩きつづけるしかできないよ。大丈夫だよ父さん、横になって少し休めばすぐ自分で歩けるようになるから。大丈夫なもんか、と俺は心の中で叫ぶ。自分の姿を見てみろ、こうして少しでも時間が過ぎていくことさえ俺には恐ろしいんだ。もっと俺が若ければ、もっと俺に力と体力があれば、こんなところに来なければ。呼吸は際限なく浅く早くなって、息子の重みと俺の恐怖で肺が溺れているみたいだった。「それともちょっとでも姿勢を変えたほうがいいか?頑張ってみるからよ、なあ、どこが痛むんだ」山道のうねりを一つ過ぎるごとに息子の身体は重くなるようだった。時々交わす言葉もお互いに掠れて弱々しくなって、木々のざわめきに紛れてしまうことが増えていった。大丈夫だって、ここで待ってるから、一度置いて行ってよ。すぐ追いつくからさ。なあ、そんなことできるもんか。もう背中も腰も固くこわばってしまった。もう年だ、だからこういう時は休まない方がいいんだ、ともう一度思った。息子の身体を道端にそっと横たえて自分だけ先に進んでいく。そんな様子を想像するだけで怖かった。乾いて荒れた山道、一歩を踏み出すたびに小さな砂埃が舞い上がる山道。その傍ら、下生えの中に半ばうずもれた息子の身体。青白い唇に渇いた血の粉がこびりついて、ぴくりとも動かない息子の身体。「どっちにしたってできねえよ」俺は乾ききって泡のようなつばを吐き出してから呟いた。返事はなかった。少しだけ、ほんの少しだけ雨が降ってくれればいいと思った。そうすれば火照った身体も楽になるし、血と埃も洗い流してくれるかもしれない。「なあ、覚えているか、お前も一度この山に登ったことがあるだろう。一緒に登ったんだ。もう随分昔のことだけど俺ははっきり覚えているよ。あれは結構寒い季節だったな。けど天気は良くて汗ばむくらいだった。風は冷たくても心地よいくらいだった。おい、もう少し下れば川沿いの道に出る。そうすればもうすぐだ。おい、聞こえてるか」またつばを吐いた。血が混じっていたかもしれない。「たしかあの時は頂上から尾根を辿って歩いていったな。そこらの木陰で休んで飯を食っただろう。お前は得意そうだった、俺も褒めてやったよ。頑張ったな、って。よくここまで登ってきたなって」俺は返事を待った。覚えてない、もうそんなこと覚えてないよ。息子がそう言ったように聞こえた。背中が燃えるように熱かった。俺の体温か息子の体温か、汗か血か。それを知るのも怖かった。「覚えてないかもしれないけど、あったんだよ。少なくとも俺は昨日のことみたいにはっきり覚えているよ。帰り道で空模様が怪しくなっただろう。それで二人で慌てて来た道を引き返したんだ。今日と同じだけど、その時は二人でふざけ合うようにして早足で帰ったんだ。山を降りて、ちょうど町にさしかかったところで雨が降り出した。風邪をひくぞと言ってもお前は雨の中を歩いていたな。空には晴れ間も残っていたし、大した雨じゃなかったんだ。お前は雨の降る空を見上げて歩いていた。真っ直ぐな日差しが空から降りてきて、故郷の町を満たしていた。幸せそのものだった。あれは幸せそのものだったんだ。起きてるか、なあ、眠いのか?もうすぐだからな、あと少しだ。俺の言葉は乾いた空気に吸いこまれるようにして消えていった。息子の身体は俺の背中と一つになってしまったようだった。とてつもなく巨大な瘤のように、腫瘍のようにそれは分かちがたく、俺たちは同じ血流に支配されてしまったようだった。川の流れる音が聞こえる。そう俺は呟いた。いや、もしかしたら息子の囁きだったかもしれない。俺は歩きながら耳をそばだてた。それは木々のざわめきのようにも、人々のささめきのようにも、あるいはささやかな雨音のようにも聞こえた。着いたよ、と声が聞こえる。俺は立ち止まって、息を整えようとする。鼓動と荒い息遣いで耳がおかしくなってしまったみたいだった。見上げたら川が見えるといい、穏やかなせせらぎが聞こえるといい。息子の身体の重みはもう感じなかった。そう思いながら俺はじっと乾いた地面を見つめていた。

 




Ready forへ参加

応募作品へのコメント投稿、ポストカード、作品集書籍などご希望の方は“Ready for”で『リターン』をご購入ください!

ログインして続きを読む!

既に閲覧の権利をお持ちの方は以下からID、パスワードでログインの上、御覧ください。




Join the Discussion

Return to top of page