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文学大賞 本編部門04 もう一人いる 作者 〆切抜刀斎

文学大賞 本編部門04

作者:〆切抜刀斎

 家の中は、冷たい沈黙で満たされていた。冷蔵庫のモーターが回る音だけが、残酷な静けさにあらがっていた。その音が止まると、世界全体が息を止めているように感じた。母は台所に立ち、兄は部屋にこもり、私はそのあいだを泳ぐみたいに歩いた。どこにも行き場はないので、歩いていないと溺れてしまいそうだった。家の空気は、ゆっくりした生き物のように壁伝いに動き、私の肩に触れては離れていった。季節は律儀に巡るのに、家の時間は壊れた古時計みたいに止まったままだった。

 私がテストで学年三位を取った日、母に成績表を見せようとすると、「あとでね」と言われた。その“あと”がいつなのか聞く前に、母は流しに向かった。水の音が、返事の代わりになった。真夜中、兄が外に出て、コンビニの袋を持ち帰った。母の寝室のほうから、小さくすすり泣く音がした。私の成績表は、テーブルの端でしょんぼりとたたずんでいた。
 兄の部屋の前では、母はよく立ち止まっていた。言葉を探すように唇を動かし、結局、何も言わない。触れたら壊れてしまうような沈黙。私は廊下の端で、それを見て見ぬふりをした。声をかければ空気が壊れそうだった。その無言の往復が、この家の会話だった。どちらの声も届かないまま、同じ屋根の下で暮らしていた。
 あの家では沈黙も一種の家族みたいなものだった。そこにいるのが当然で、誰もそれを疑わなかった。台所の時計の針が進む音さえ、耳の奥で遠くなる。鍋の蓋が小さく鳴ると、母は少し驚いた顔をして火を弱める。
 私を呼ぶ声は、あの家にはなかった。私がどんな気持ちでそこにいたのか、母も兄も気づかなかった。それでも、私は確かに同じ家にいた。中学二年生の部活の大会でもらった賞状がある。その角で指をかすかに切り、滲んだ血が賞状の端に小さく残ったまま乾いた。私以外、家族の誰も見たことがない賞状の数々。そういう小さな証拠が、私の存在を辛うじて証明してくれていた。

 私は、母の気を引こうとしていた。褒められたかったし、私の存在を確認してもらいたかった。だから、勉強も部活も頑張った。母の世界の中心にはいつも兄がいた。兄の部屋の扉は閉ざされていたけれど、母の心だけは、あの薄暗い部屋の中に置き去りにされていた。私の居場所は、その扉の外、光の届かない廊下の片隅だった。影は光の存在を知っている。けれど、光は影の存在に気づかない。私はその片思いのような関係の中で、ゆっくりと自分を薄めていった。ときどき、母の背中が振り向く錯覚を起こした。母が、私の名前を呼んだように感じた瞬間があった。けれどそれは、空気が気まぐれで古い記憶を見せているだけだった。

 兄は物静かな人だった。ただ、時々なにかに取り憑かれたように部屋で暴れた。母は小さな体を丸めて静かに泣いた。私はその音をかき消すように洗面所の水を流した。泡の立つ音が妙に安心させてくれた。そのとき私は、何かを守っているような気がした。それが自分なのか、母なのか、あるいは家そのものなのかは分からなかった。兄がなぜ部屋にこもったのか、私は知らない。けれど、あの部屋の静けさの中に私たちの言葉すべてが沈んでいる気がした。深い沈黙は音を吸い込み、時間をも消してしまう。兄の部屋の沈黙は海の底みたいだった。窒息しそうなほど息苦しく、誰も寄せつけない。
 ときどき兄が羨ましかった。兄が怒っても悲しんでも、母の時間を独占できたから。私はその外側で、透明な存在としてそこにいた。まるで、大きな水槽のガラスを隔てて家族を見ているようだった。手を伸ばせば触れられるはずなのに、触れた瞬間、何かが壊れてしまいそうで怖かった。

 就職をきっかけに、私は初めての一人暮らしを始めた。荷物も、記憶も、最低限しか持ってこなかった。引っ越しの段ボールの中には、兄の部屋の匂いが少しだけ混じっていた。それを嗅いだ瞬間、胸の奥がざわついた。駅までの道の電柱に貼られた古い選挙ポスターが、陽に焼けて誰だかわからなくなっていた。新しい部屋は白く、天井の照明はやけに軽い音で点いたり消えたりした。初めの数日はカーテンがなく、夜の窓は鏡になって、見知らぬ都市とこちら側の私を重ねていた。

 朝の光の具合や冷蔵庫の唸り声を聞くと、あの家を思い出した。逃げても、空気は一緒にやってくる。空気は記憶を運ぶ。会社の同僚たちは笑いながら「家族は大事にしないとね」と言った。私はそうですねと答えた。それ以上言葉を足すと、何かが壊れそうだった。昼休み、私は窓際に立ってビル風を少しだけ胸に入れ、呼吸の速度を調整した。夕方のオフィスはプリンターの小さな唸りと、誰かが咳払いを我慢する気配で満ちていた。そこでも私は目立たず、いることだけを心がけていた。

 夜、ニュースが流れた。ひきこもりの問題を特集していた。専門家が「親子の関係を見つめ直す必要があります」と話していた。私は画面を見ながら思う。もう一人いる、と。だけど、誰ももう一人の名前を呼ばない。兄は「お兄ちゃん」と呼ばれ、母は「お母さん」と呼ばれた。けれど、私を呼ぶ声は、あの家にはなかった。ベランダに出ると、向かいのマンションのキッチンに黄色い灯りがともり、知らない家族の笑い声が食器の音に混じって広がった。

 私は、黙って朝を迎え、黙って会社に向かった。代わり映えのしない日々。けれど、それは確かに、私の人生を形作っていた。電子レンジの軽い電子音は、心臓の鼓動のように規則正しい。私は湯気の立つカップ麺を見つめる。味は薄い。でも誰の涙も混じっていない。そのことが、少しだけ救いだった。鍋つかみ代わりのタオルに残る柔軟剤の匂いが、私だけの匂いになっていく。兄と母とあの家の匂いを上書きしてくれるような気がした。休日、干した布団をベランダで叩くと、細かい埃が空へ舞って、午後の光の中で金色に反射した。

 母も兄も、きっとこれからも気づかないだろう。私がどんな思いであの家を離れたのか、どれほど息を詰めて生きてきたのか。きっと一生知らないままだろう。それでいいのだと思う。気づかれなくても、ようやく自分の呼吸で世界を満たせるようになったから。
 私は今日、初めて自分に向かっておかえりと声をかけた。その声は思っていたよりも静かだった。でも、確かにどこかで響いた。外の風がカーテンを揺らし、遠くで踏切の音が鳴った。私はその音を聞きながら、少しだけ息をしてみた。それは長いあいだ忘れていた呼吸だった。世界は音を立てずに、少しだけ動いた。私はコップに水を注ぎ、冷たい水面に映る自分の輪郭を見た。輪郭は薄いが、たしかにそこにあった。見えにくいものが、この世界にはいくつもある。私もそのひとつとして、これからもやっていける気がした。玄関の灯りを落とすと、部屋はゆっくり夜になった。私は窓を少しだけ開け、街の空気を吸い込んだ。見知らぬ誰かが遠くで笑い、犬が一度吠え、信号が赤から青へ変わる。小さな変化の連続が、私の一日を確かに前へ押し出していく。名前のない日々は続くけれど、私はその日々に少しずつ名前をつけていくつもりだ。そうやって、私は私のまま、生きていく。




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