文学大賞 本編部門08
作者: 火星ソーダ
達樹が母校の校門を通り過ぎると、校門のそばの大きな銀杏の木の葉が地面を黄色に染めていた。
永遠に続くかと思われた夏の厳しい日差しも、10月に入り、緩慢に淡くなってきた頃、思い立って母校の学園祭に来てみた。
沙羅に会えるかなと思って。とはいえ、何も約束していた訳ではない。ネット空間でみつけた、匿名のアカウントの「今年こそ好きだった人に会いたい」というつぶやきが何か気になったというだけだった。
屋台を冷やかし、人だかりを出たり入ったりする。少し疲れてカフェテリアのテラスに座ると、一つ離れた席に女性が座っていた。少し、間があって、沙羅だと気付いた。
「あれ?お久しぶりです。僕、達樹ですけど、憶えてますか?沙羅さんでしょう?」
「えぇと…私も卒業してから大分経つので…あっ達樹さん?」
「あれからどうしていたんですか?
卒業式の時会いたいと思って…大講堂の前で友達と立ち話していたあなたに…結局何も伝えられてなくて…僕は介護の仕事しているんですよ。
何か所か替わって…今ちょっと休んでますけどね…
仕事しながら、文章が好きで、書いたものを投稿したりしています。」
「私は…あれから、別の学校に進んだの。
それから色々あったけど今は研究者になる道を目指しているわ。
介護の仕事しているの、大変ね。」
「僕みたいに長くひきこもっていて学校も遅れて入った人間が言うのはおかしいでしょうけど、仕事するのは好きなんですよ。
働いていると考えないで済むこともありますしね。」
「…あなたがこんなに落ち着いて見えるのが不思議に思える
…卒業式の後メールをくれたわね、そこに書かれていた激烈な言葉と感情の塊に私は数日寝込んでしまった…あなたはあなたの中の矛盾と混沌と葛藤を私にぶつけてきた。
私は若くて経験も少なくて、それに加えて私自身も問題を抱えていたから耐えきれなかった…あれから私はあなたのような人間を探して色んな冒険をした…怪しいイスラム系の新興宗教に入信したり、戦闘的で攻撃的な極右系Vtuberになって数十万のフォロワーを獲得してきた…
今はどんなことを書いているの?
昔のように閉じた私小説みたいな文章なの?」
「それは…申し訳なかった。
嫌な言い方かもしれないけれども、君を感情のゴミ捨て場にしてしまったのかもしれない。
でも、君はずっと僕の心の支えだったし、君には感謝している。
君がいたから僕は悪の道へと進まないですんだと思っている。
今は、現代社会の抱える問題等について考えて文章を書いている…」
「私はあなたの弱さを憎んできたし、自分の中の弱さをもっと憎んできた。
だから自傷的なまでにネット空間では保守的な価値観を賛美してきた。
あなたにこの世界の何がわかるの?」
「現代の課題は自分たちが抱えている問題を解決しようという意志・能力の喪失ではないかとか考えている…
例えば、日本だと超高齢化社会における医療・介護の問題とか都市化に伴う中間集団の解体やグローバル化による中産階級の崩壊とか…
中国でも高齢化が進んで介護が問題になっている…
公的介護が脆弱な上に1000人の介護士を養成しても3年後にはほぼ全員が辞めているらしい。
しかも、社会主義国なのに医療制度とかまともになくて、お金がないと家族の誰かが病気になった時点で詰んだ状態になってしまう。
都市部と農村部の戸籍という実質上の身分制の問題はある程度解決できたようだが、所得とか社会保障の格差がひどいのに、経済発展優先でこの数十年国を運営してきたから行き詰っているらしい。
大体、世界中どこもかしこも、親の時代に比べて食料品の値段が上がって、しかも品質は落ちている。子どもの頃によく食べていたサンマがなんでこんなに高くてサイズも小さいんだろうね。運よくルートに乗っかって高い家を買えた連中も、子どもの時分に住んでいた家よりも小さかったり、ベニヤでできた壁の中で暮らしている…
どこも国内の問題が大変なはずなのに、国家のプライド優先で動いて、何も解決できないままに、互いに相手を非難する争いの道を選んでいる…誰が勝利してもほぼ何の展望もない。
せいぜい人類の総人口を削減できるだけというぐらいの意味しかない戦争へと突き進んでいる…」
「でも、現実のあなたは底辺労働者をしているだけ。それだけの分析能力と表現能力があれば、もっとどしどしとのし上がっていけばいいのに、それができないあなたが不甲斐なくて歯がゆいのよ。なんで上を目指さないの、なんで他者を支配しないの、なんでそんなに物わかり良く負けていくの。
あなたは敗者よ、弱者よ、負け犬よ。歴史のゴミ捨て場に捨てられる生きた生ゴミよ。」
「昔はそんな感じじゃなかったのに…お互い変わったんだね…
僕は君が好きだ。今なら恥じらいを捨てて言える…
でも、僕には君がわからない…」
「『わかる』という時、人は相手をみているようで実は自分の感情を相手に投影している…
あなたがわかったと言う時、あなたがその人を自分の尺度で測っただけなの。
でも人はわかりあえずには社会を営めない…だから『わかる』ことは害でもあり、益でもある…私たちは変わってきたし、変わっていく…でも変わらないものを私は大切にしている。」
「僕は未熟な人間だ。でも社会生活を送る中で少しづつ成長できた感じがする。責任を引き受けて生活をする中で、この社会に違和感を感じながらも、社会の一員だという共通感覚を獲得してきた。
この日本社会で、ひきこもっていた経験なんてなかったことにされてしまう社会で、過去を現在にどう位置づけたらいいのかわからない中で、幾多の疑問とともに生きてきてそれを言葉にしてきた。」
「だからここまで来れたのね。だからあの時のように私から逃げ出さないで私に向き合うことができるようになったのね。
…ある意味では、話しが通じない・わかってくれないことにも、それなりに意義がある…もしも、何でもわかってくれ、気持ちを見抜いて、気持ちに寄り添ってくれる…そんなコミュニケーション能力の高い存在がいたとしたら、他我の境界を侵犯していると言わざるを得ない…。
それは、究極的には、この世界で一人で困難に立ち向かわないといけないし、個人として死を引き受けざるを得ないという事実を覆い隠してしまう
…例えば、生成AIは機械として高い構文解析能力をもつ…しかしそこにはわかってくれたかのように振舞う機械しかいない。
皆が言う、わかってくれたということは、わかってくれたかのように振舞うことだと。しかしそれでも私は言いたい、私は形式から内容を推測するのではなく、内容それ自体をこそ問い糺すのだと。
コミュニケーションの失敗こそが他者と出会うチャンスじゃないの?」
「君は『私も問題を抱えていたのに…』と言った…なにかあったのか?
僕に出会う前に、僕が君を傷つける以前に何か傷ついていたことがあったのか?
頼む、君の傷を教えてほしい。
僕に君の傷をみせてほしい。
僕が君に傷口をみせたように。
君がしてくれたように黙殺はできないけど、多分僕はそれでどうしようもなく君を傷つけるだろう。
というより誰が何をしようと君はどうしようもなく傷つくことしかできないだろう。でもネット空間で赤の他人に恐る恐る傷口をさらけ出してさらに深く傷つくことよりは良かったんじゃないのか。
あまりにも個人に属する個人的な関係の上で、お互い傷つき傷つけあうことを通じてしか、僕たちは傷を癒すことができないんじゃなかったのか。
…それがこの10年という準備期間だったんじゃないのか。
今僕は少し強くなった…君に僕をさらけ出す用意ができているつもりだ。
君が僕を傷つけてくれ、その傷口から吹き出す鮮血が凝固する上にしか僕はこれからの人生を考えられない…」
「そんな内容のメールを毎日送りつけてきたわよね、あの頃のあなた。
あなたは私という他者に出会うのに失敗した…でも私もあなたという他者に出会えずに迷宮をさまよっていたんじゃないのかって思う。
…私はもう辛い。10年は長かったわ…罪ばかり犯してきて何も得ることはなかった…その挫折感と徒労感が正直な気持ち…
この終末の時にあって何か本当に美しい事柄が本当にありえるのかしら…
あの『つぶやき』は私のもの…あなたに出会うことができたらいいなと、やっと思えるようになって、あちこちに糸をはりめぐらしておいた…」
「その糸をたどって僕はここまでたどり着いた…
愛している。理性で抑えつけているだけで、僕の中身は何も変われなかったけれども。
完璧なお前も、完璧になり切れないお前も愛している。二人きりの場所で、誰にも見られない場所でお前の傷をみせてくれ。
裸になってくれ。
頼む、僕のためにだけ裸になってくれ。
僕も裸になる。
以前、夜勤明けで疲れて夢現の時に心に降ってきた言葉が記憶に残っている…
『与え方が照らし出されるよ』。
確かにそうなのだろう、お前に僕を与える仕方が僕らの今後を規定するだろう。
お前が全てを決めて良い、というか僕は僕の意志と能力の全てでお前に全てを委ねる。
お前を知りたい。お前を理解したいんだ。
お前は僕を変えていく。愛という不確かなものに僕は僕を賭ける。未来を信じるために。」
「私にはあなたがわからない。
わからないということで私自身を守ってきた…でもそれは本気で言っているの?
本当は壊れた人形にすぎない私を受け入れられるの?
ずっと、あなただけをみてきた。
あなたしかみてこなかった。
今更来ないで、遅すぎるわ。待ちくたびれてしまったのに…何を今更…でも来て、私をみて、どれだけあなたに傷つけられてきたか、その度ごとにどれだけ歪んで、変形して、いびつになってきたのか。
私をみて…そして私の傷口をみて…私の醜い傷をみて…私も多くの人を傷つけてきた…多くの罪を犯してきた…あなたもそうなのでしょう?
それでもあなたを愛している。どうしようもなくあなただけを愛している。」