文学大賞 本編部門12
作者: 蛇煙(だえん)
『優しい子ね。ここでは、何も考えなくていいわ』
ルイさんは私にそう言うと、私にまた温かい紅茶を出してくれました。
私は疲れていました。
とても、とても。
ある日、母が私を殴りました。友人と酒を飲んで帰ってきて、それから風呂に入って、もう寝るのかなと思っていたところでした。
帰ってきてすぐ、はやく寝室に戻ってくれないかな、と思いながらも酔った母を風呂場まで連れて行ったりと介抱をしていましたが、その時の母はまだアルコールに浮かされており、陽気に今日友人とした話や色々なことを楽しげに語っていました。
私は聞いているようで何も聞いておらず、ただ今晩が静かに、優しく過ぎてくれることだけを望んでおりました。
それは難しいことだったようです。風呂から出た母は鬼のような形相に変わっており、あ、と思う間も無く頭がぐわん、と揺れました。
私は衝撃で倒れ、それから口の端がぴりっと痛むのを感じ、触ってみると血が出ていました。
それからすぐに、話は抵抗することをやめました。
この人の中に溜まっている「何か」、それが全て出てしまうまでは、コレは終わらないのです。
そういう時に、私は明日の学校のことを考えます。
数は少ないけれど、仲良くしてくれる友人たち、気分が悪いと伝えると、心配して休ませてくれる保健室の先生。
要は現実逃避というやつです。それをして、今の私から、心の中の私を引き剥がすと不思議と痛みを感じなくなるのです。
それから母は暴言のような、叫びのような何かを私に浴びせつつ、顔を数発、最後に腹を蹴ると「何か」は出ていったのか、フラフラと寝室へと向かっていきました。
私はティッシュで血が出ているところを少し押さえつつ洗面台に向かい、顔が腫れていないか確認しました。
殴られた頬が少し腫れている、明日はマスクをした方がよさそうだな、と冷静に考えます。
心を落ち着かせる為に深呼吸をして、私は私の部屋へ行き、それからすぐに眠りに落ちました。
「また何かあったん?」
マスクをして登校した私を見つけ、声をかけてきてくれたのは親友のキイでした。
「あー、いつものやつ。大丈夫よ」
私がそう答えると、キイはムッとした顔をして何か考えていました。
「うちもたまにあるんやけどさあ、オトナなんやったらガキ殴んなよなって思うわ」
キイは細かい事情は違うけれど、私と同じ、家で母に殴られている子でした。
「ユイはされるがままなんやろ?」
「そやね、うちの親は変に刺激したら長引くから」
「わからんわあ、うちはもう殴り合いなるもん。されっぱなしは性に合わん!」
キイがシャドーボクシングみたいに、手をしゅっしゅっと動かしたので思わず笑ってしまいます。キイは強い子だな、といつも思わされます。
「キイのとこも、酔った時?」
「いやあ、うちは酔ってなくても。気分?知らんわ、あんなアホ」
私はキイの口の悪さにまた笑い、そういうキイを見ているとなんだか救われた気持ちになるのです。
お互いに愚痴を吐き合うような、それを繰り返していると、平穏な今日の学校生活は終わってしまいます。
「じゃ、またなー!」
キイと私の家は校門を出て真逆の方向なので、いつもそこでお別れです。寂しいな、と思いつつも元気に自転車を漕ぐキイに手を振りました。
私も自転車で通学をしていますが、いつも乗らずに押して帰ります。あまり早く家に着きたくないからです。
はあ、と思わずため息が出てしまいましたが、キイを思い出し、顔を上げて深呼吸をした時でした。
ふと、紅茶の良い香りが漂ってきたのです。
家に着くまでの道には、知り合いの家ばかりが並んでいます。私の同級生と、あとは全て母の知り合い。
夕飯の香りがすることはあっても、紅茶の香りがしたのは初めてでした。
ふと、自転車を押すのをやめて左を見ると、人がひとり通れるくらいの細道がありました。
──こんな道は、ここにはなかった。
産まれて、ずっと住んできた小さな土地です。小さい頃に近所の細道や、色々な道を走り回っているのに、知らない道がある訳がないのです。
「こんな道、なかったよな……」
思わず独り言を呟いてしまってから、その奥から紅茶の香りが、まるで私を呼ぶように香ってきている気がしました。
私はそれにつられるように、道の端に自転車を停めて、ふらふらとその細道へと入っていったのです。
そこには、レンガで出来た、洋風と、言えばいいのでしょうか。見慣れない小さなお家がありました。
私の帰路、というよりは、知っている道には昔からあるような、同じ様な形の家ばかりが並んでおりましたから。
そして、その玄関の扉が、私を手招くように少しだけ開いておりました。戸惑いはありました。けれど私は、その家の扉に手をかけました。
「あの…………すみません」
少し開いていた扉を、もう少しだけ開いて、私は小さな声ではありましたが、家主に届くだろうか、そう思いながら声をかけました。
「あら、今日は随分とかわいいお客様ね」
少し覗いたお家の中は、廊下がすーっと伸びておりました。いや、そうだったはずなのですが、ひとつ瞬きをした瞬間に、彼女は私の前に立っていました。
「あ、あの、急にすみません!」
驚きつつ謝罪をした私に、彼女はとても、とても優しい笑みを浮かべたのち、こう言いました。
「ここに来れたのなら、あなたは今日のお客様よ。さ、靴を脱いで上がって頂戴。スリッパは……。あら、この黄色があなたにとてもよく似合うわ、これを履いてね」
家主であろう女性は、長い長い銀髪の、透き通った白い肌をした方でした。そして目はルビーのような赤さ。
この世のものとは思えないほどの美しさ。言葉だけは知っておりましたが、この方にぴったりの言葉でした。
「あ、ありがとう、ございます」
家主さんが靴箱を開けて選んでくれた黄色のスリッパには見たこともないくらい綺麗な刺繍がされておりました。あまり花には詳しくないのですが、カーネーション?でしょうか。
とにかく私はそれを履いて、家主さんの後ろをついて行きました。
「今日は新しい紅茶が手に入ってね。一度淹れてみようかしらって。そうしていたらかわいいお客様が来たものだから」
彼女は笑ってそう言った後、「ああ、私のことはルイと呼んで頂戴ね」と微笑みました。その美しさに、私は思わず、顔を伏せてしまいながらも、小さく頷きました。
それから、ルイさんはこの家にピッタリな洋風のかわいい椅子へ私を座らせてくれました。我が家は昔ながらの和風な家なものですから、すこし落ち着かないような、ソワソワとした気持ちになはしましたが、不思議と嫌な感じはしませんでした。
「遅れてごめんなさいね、あなたのことはなんと呼んだらいいかしら?」
「私、は、ユイといいます」
「ユイちゃん。可愛い名前ね。教えてくれてありがとう」
ルイさんはそう言って微笑むと、ティーポットに入った紅茶らしきものと、綺麗な花の模様が描かれたティーカップを私の前に出してくれました。注ぐ前に、ルイさんが私に尋ねます。
「ここで聞くのも申し訳ないけれど、紅茶は飲めるかしら?」
「飲めます、実はここに勝手に入ろうとしてしまったのも、とても良い紅茶の香りがしたからで……」
それを聞いたルイさんは、ふふ、と、とても上品に笑いつつ、私のティーカップに綺麗な色の紅茶を注いでくれました。
ふんわりと、外に香っていた何倍もつよく良い香りが部屋に漂います。
それに強く惹かれて、すぐに飲んでしまおうとした私にルイさんは言葉をかけてきました。
「ああ!そういえば、美味しいクッキーを頂いてたのよ。ユイちゃんはクッキーは食べられる?」
幼子に対するような物言いでしたが、ルイさんの口調からは優しさしか感じませんでした。アレルギーか何かを気にしてくれたのでしょう。
「クッキー、実は、あんまり食べたことがないのですが、好きです……」
私がそう返すと、ルイさんはとても嬉しそうな顔をして「少しだけ待って頂戴ね」と言ってから、綺麗な花柄のお皿に色々なクッキーを乗せて持ってきて下さいました。
「お待たせしてしまってごめんなさいね、さあ、好きなだけ食べてね」
そう言って、ルイさんは微笑みます。
「ありがとうございます……!」
私はまず、紅茶をひとくち飲みました。今までに飲んだことのないような香り、でもどこか気持ちを落ち着かせてくれる優しさ、色々なものが詰まっておりました。
「おいしい……」
思わずそう漏らした私を見て、ルイさんはとても嬉しそうな顔をして、ほら、クッキーもあるわよ、と私に勧めて下さいました。
ぐるぐるとした形で、真ん中に苺ジャムが乗っているもの、まん丸の、よく見る形のクッキーだけれど、とても香ばしいバターの香りのもの、真っ黒の、チョコレートの苦味を初めて美味しいと思えたもの。
ルイさんが出して下さったクッキーはどれもとても美味しく、私は感想を言う暇もなく、クッキーをぱくぱくと食べてしまっておりました。
「学校は、楽しい?」
ニコニコとした表情を崩さないまま、ルイさんは急にそう聞いてきました。
「ええと……はい。仲のいい子がいて、おかげで、楽しく過ごせています」
「そう」
その時の、ルイさんの笑顔が何年経っても忘れられないのです。あの愛おしい人を見る目を、瞳の美しさを。
あの日以来、あの細道はすんと消えてしまいました。
それでも私は、あの日があったから今を生きられているのだろうな、とよく思うのでした。