ひきこもりの友へ
ペンネーム:外いくよ
両親が余命宣告を受け、私は玄関を出た。
20年振りの外出。
窓枠で囲われていた空が頭上に果てしなく広がっていて、
(あぁ、空ってこんなに大きかったんだぁ…)と思い出した。
車窓から見る流れる景色、新しい建物と変わらない建物が混在する町。
コンビニの陳列棚のライティングが眩しすぎて、思わず目を覆った。
久しぶりの外の刺激と、呼び起こされる記憶の波に、頭の中がパチパチした。
このときの体験はずっと忘れないだろうな、と思う。
ひきこもりは有限で、いつか終わりのときが来る。
家族がいなくなることもあれば、体が弱って病院のお世話になることもあるし、突然の事故や災害に遭遇することもある。
そして、なりふり構わず勇気を出してドアを開けるときが来る。
自分にもそのときは例外なく訪れた。
その経験を経て感じ、同じ境遇の友に伝えたいことがある。
「大丈夫だよ」と。
勇気をふりしぼるのは怖かったけど、最初だけだったし、
知らない間に外は知らない人だらけになってたし、
親戚やお店の人や病院の人、大体みんな優しかったし、
マスクしてたら顔ほとんど見えなかったし、
買い物やいろんな手続き、スマホや郵送で済ませられることが多かったし、
思ってたより人は他人に無関心だったし。
困ったときに助けてくれる人がいたし、
人生ってなるようになるし、なんとかなるみたい。
今でも外出は最小限だし顔隠しがちだけれど、逞しく生きてる私を見たら、死んだ両親は驚くだろうなぁ。
奇しくも現在、ひきこもりにとっては生きやすい時代が到来していると思う。
ネットには上手に生きていくためのライフハックが溢れているし、人と触れ合うことも、自分のスキルを売って収入を得ることも、匿名でできる。
通販や宅配の充実、テレワークの浸透などで、外に出る必要性が低くなったし、マスクの定着で外出のハードルも少し下がった。
コロナ禍の自粛で家から出れなくてつらい、などというニュースを見ると、その点ひきこもりは暇つぶしのプロだな、なんて苦笑してしまう。
もはや、ひきこもりは症状ではなくライフスタイルなのかもしれない。
たしかに、真っ只中のときは、漠然と悩んでは逃げてを繰り返し、将来への不安にイライラすることもあったけど、今ではそんな自分やひきこもった日々すら愛おしく感じてしまう。
お母さんの溢れすぎた愛情や、お父さんの不器用な愛情も、結局は同じ愛情だったのだ。許したあとは、感謝しかなかった。
いろいろなことに気づくために、人よりちょっと遠回りをしてしまったなぁ。
私は、それが許される環境があるのなら、一生ひきこもる人生もありだと思う。
何が良くて何が悪い、ひきこもりは人一倍、そういう人が作った価値観に縛られていると思うから。
自分で決めた人生を生きて行くのは楽しい。
ひきこもると決めたならそれもありだし、逃げるより楽な道があるならば、そっちに行ってもいい。
年を重ねたせいなのかどうなのか、昔に比べるとずいぶん楽観的になったものだ。
絶対に家から出ないという鉄の意思、特別な自分でありたいという山のようなプライド。
めちゃくちゃ強そうじゃないか。
ひきこもりでも、そうでなくても、楽しかったら最高だ。
再び外に出るようになってまだ日が浅い私は、まだまだ考え方が幼稚かもしれない。
今まで楽をしてきたツケを、今後払っていかなければならないかもしれない。
体はまたひきこもるかもしれないけど、過去に飲み込んできた言葉たちは、外に出していけたらいいなと思う。
オンラインゲームは楽しいし、猫はかわいい、回転寿司は美味しいし、桜並木は美しかった。
生まれてきて良かった、言えなかったけど、お父さんお母さんありがとう。
私もみんなもきっと大丈夫。
Opinions
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「大丈夫だよ」というメッセージはとても力強く、心強く感じました。どんな状況もそう悪くない、と思えることが大事だな、と思いました。
Permalink20年ぶりに感じた空の大きさ。とても美しかったのだろうなと思いながら、読ませていただきました。体はまたひきこもるかもしれないという言葉には、自信のなさというよりも、ひきこもっていた自分と何かしらの決着をつけられた気持ちの強さのようなものを感じました。読後感のさわやかな作品だなと思いました。
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