文学大賞 短編部門10
作者:野澤亮
引きこもりたい、思っている。引きこもって「いる」のではない。残念ながら社会に出ている。カタい言い方をすれば「隠者」になりたいのだ。しかし、引きこもりたくても経済上引きこもれず、家族も許してくれそうにない。ゆえに五斗米のために腰を折り、世間の汚濁にまみれて、働くことを余儀なくされている。働くということは様々な人と接するということである。仕事での付き合いというのは往々にして愉快なものではない。他人と同じ空間にいるということは、即ち予期せぬ人間関係のトラブルが起こる確率が独りで一つの空間を独占している時とは異なってゼロではないということだ。
何かのたびに面倒な交渉をし、頭を下げて懇願し、時にはしたくもない忖度や配慮もしなければならない。他人の欲していることは何かを考えたり気を遣ったりするのはなかなか骨が折れる。一週間のうち五日間、場合によっては六日間もこのように過ごしていては自然と心身ともに疲弊するのも道理である。なぜ薄給のために隠忍に隠忍を重ね、恥辱に耐えねばならないのか。労せずしても定収入があればこんな苦行は放擲できるのである。
さて、「隠者」になりたいと述べた。隠者というと、人里離れた山奥に籠っていると想像されがちであるが、「市隠」といって市井のなかに住む隠者もいる。かの陶淵明いうように人境に盧を結び、外の喧しさをも気にせず、「心遠く地自ずから偏なり」と悠々と東籬の下にある佳き色をした秋菊を採り、前庭では清風が運んでくれる幽蘭の薫りを嗅ぎ、家に籠っては書に親しみ、古の文人墨客を友として、美酒を味わう。こ何にも煩わされず、誰にも容喙されず、気儘に過ごす、こんな「市隠(ひきこもり)生活(ライフ)」を送れたらどれだけ幸福であろうか。そう祈念してやまないのは、何も私だけではあるまいと思うがいかがであろうか?