文学大賞 本編部門11
作者:U太
バスの走る音が低く響いている。トンネルを抜けると窓の外一面に大海原がパッと現れた。天野詩織は今、ガラガラのローカルバスの一番後ろに座っている。
光り輝く世界と暗い表情。
おもむろにバッグの中からリングケースを取り出す。しばし、その指輪を手に取って見つめていたが、意を決して右手の薬指にはめた。
あの人が今年もやってくる。兄貴の命日に。
その想いを胸に、島崎達也は小さな港町の幹線道路を自転車で全力疾走していた。バス停までやってきて、時刻表とスマホの時計を見比べた。どうにか間に合ったようだ。
「誰、待ってるの?」
達也がびっくりして振り返ると、堤防の上に人影があった。水森マコ。ショートカットの見た目も、がさつな言葉づかいも、女子らしさがまるでない。
「関係ねーだろ」
達也も堤防に上ると、無理やりマコを向こう側の岩場に引っ張りおろした。ちょうどバスが近づき、到着する。ドアの開閉音。そしてまた走り去っていく。
「だから、誰を待ってるの?」
「静かにしてくれ」
しつこかったマコが怪訝そうな表情で、堤防の外れの石段に目を向けた。日傘を差す詩織がいた。そよ風に髪がなびき、ロングのスカートが揺らいでいる。大人の装い。
「詩織さん!」
嬉しそうに駆け寄っていく達也を、マコは冷ややかに眺めた。
「タッちゃんのカノジョ?」
詩織は相変わらず優しい笑みだが、今はちょっとからかうような雰囲気があった。
「まさかッ。高校のクラスメートだよ!」
「このあいだまで小学生だったのに、タッちゃん、色気づいたね」
「だから違うんだって!」
詩織が先に歩き出すと、達也があわててあとを追っていく。
「何がタッちゃんだ。鼻の下、伸ばしやがって」
取り残されたマコはフンと鼻を鳴らして、反対方向へ去っていった。
街道沿いに建つ年季の入った食堂は、ドライブ客目当てに駐車場が広い。自宅を兼ねた裏口から達也が入ってきた。
「詩織さんが着いたよ!」
厨房では父の幸太郎が黙々と仕込みをしていた。ちょうど昼営業も終わり、夕方までクローズしている。
「早く早く。着替えたらすぐ出かけよう」
達也は外に向かって声をかけると、奥の自宅へ消えていった。続いて詩織が入ってきた。
「お父様、今年もお世話になります」
だが、幸太郎は見向きもせず、しかめっ面で仕事を続けていた。詩織は奥へ行こうか迷った。
「あの……あとで……」
その時、達也が顔を覗かせた。
「何してんの。オヤジなんかほっといて、早く支度して」
詩織はまだ何か言いたげだ。
「オヤジが仏頂面なのは毎度のことだろう。けどね、内心、メチャクチャ嬉しいんだよ。娘ができたみたいだとか言って」
「あとで……お店、手伝いますから」
詩織は幸太郎に一礼すると、達也とともに奥へと去っていった。今まで無関心だった幸太郎は、ようやく奥のほうへと振り返った。
供えられた花束と線香。墓石の前で達也が黙祷している。目を開けて隣を見ると、詩織は依然としてじっと手を合わせ続けていた。
今から五年前、まだ大学生だった詩織は恋人から打ち明けられた。
「オヤジの跡を継ごうと思っているんだ」
英輔……達也の兄にあたる人だった。同じ東京の大学生。けれども、彼は卒業したら実家に戻るという。
「無理に決まってるでしょ。私だって就職が決まったんだし、そう簡単にあなたと一緒に行けるわけないじゃない」
「今すぐにとは言わないよ。俺、待ってるから」
「やめてよ、待たれるなんてイヤ」
そうして、英輔とは別れることになったのだ。永遠に。
墓参りから戻る途中、詩織のスマホにメッセージの着信があった。ちらりと目にしただけで、再びしまう。その表情が硬いことに達也は気づいたが、あえて軽い口調で発した。
「詩織さんも大変だねえ。こんなところまで来て、仕事に縛られるなんて」
「あ~あ、せっかく忘れてたのに。イヤだ、イヤだ。また、タッちゃんにいつものグチを聞いてもらおうかな」
詩織もわざと明るくふるまう。
「いっそのこと、こっちで暮らしちゃえば。前に言ってたじゃん。ウチの店で働こうかなあって。従業員なら募集中だよ」
「私には勤まらないわよ」
「そうだよなあ。東京のOLじゃ、こんなド田舎は退屈だもんな」
二人は店に着く。夜の営業はまだなのに、表戸が開いていた。
「いらっしゃいませ!」
中に入ったらエプロン姿のマコがいたので、達也はびっくりした。
「どう似合う?」
厨房に父の姿はない。
「おじさんなら、買いだしに行ったよ。バイトで雇ってってお願いしたら、OKしてくれた」
「君じゃ、無理無理」
「従業員の空きならあるから。そうでしょ、タッちゃん」
詩織があいだに入ってきた。
「大丈夫。ちゃんとここで働けるようにしてあげるから」
「もういい!」
マコはエプロンを投げ捨て、飛び出していった。
「英輔が亡くなりました。バイクの事故で」
新入社員として必死に働いていた頃、突然の知らせが届いた。英輔の父、幸太郎から連絡が来た時のことを、夢の中で久しぶりに思い出した。
目覚めると、亡き英輔の部屋に泊まらせてもらっていたことに気づいた。布団から起き上がると、外はまだ暗い。お手洗いに寄ったついでに、お店のほうへ来てみた。テーブルでひとりでお酒を飲んでいる幸太郎の背中が見えた。
「まだ、お休みにならないんですか?」
「眠れないだけだ」
振り向きもせずに返答した。
「そうでしたか……それではお先に失礼します」
奥へ戻ろうとする詩織は呼び止められた。
「もう、ここへは来ないでくれないか」
詩織は驚いて見返した。
「あんたのせいで、忘れたくても忘れられないんだ。毎年、毎年、この日が近づくたびにな」
「私は忘れたくありません」
「もしかして、無理して忘れないようにしているんじゃないのか」
詩織は言葉に詰まった。
「もういいじゃないか。いつまでもつらいだろう」
「……最近、英輔さんの顔が思い浮かばなくなる時間のほうが多いんです」
絞り出すように口にする。
「今、付き合っている人がいて……その人にプロポーズされました」
ようやく幸太郎が振り返った。
「何を迷うことがある? その人といると幸せなんだろう?」
「だって、私だけが……」
「あんたは幸せになる義務がある。それが残された者の役目だ。あいつだって、きっとそう言うさ」
「ダメです……そんなのダメなんです!」
詩織は逃げるように出ていった。そして、物陰から達也がすべてを立ち聞きしていた。
「いつか連れていってやるよ」
英輔の言葉がよみがえる。
「何もないところだけど、空気はうまいし、眺めも最高なんだ」
故郷のことをいつもそんなふうに語っていた。皮肉にも、この地を初めて訪れたのは、彼の葬儀だったけれども。
「詩織さん、朝ごはんできたよ!」
達也の声に、詩織は我に返った。毎年、翌朝は幸太郎が食事を作ってくれるのだが、今朝は起きてこなかった。代わりに、達也が作ってくれることになった。この店を継ぐことに決めたそうで、修行中の身でもあった。
食事ができるまで店内の席でひとり、ぼうっとしていたらしい。詩織は元気よく立ち上がった。
「さてと、タッちゃんの料理、毒見するかな!」
「ひどいなあ」
「このあとなんだけど、私とデートしない?」
帰りのバスが来るまで、まだ時間はあった。
達也の漕ぐ自転車の荷台に詩織が腰かけ、二人乗りで出発しようとした。しかし、すぐにふらつく。詩織は小さく悲鳴を上げ、達也にしがみついた。
「タッちゃん、危なっかしいなあ~」
「しっかりつかまっていないからだよ」
詩織は達也の腰に手を添える。達也は彼女の両手を取って、自分の腰に回させる。詩織は両腕に力を入れ、しっかり掴まる。
「さあ出発!」
自転車は海沿いの道を行く。二人だけの世界。二人きりの時間。
「兄貴のバイクにも、こんなふうに乗っていたの?」
詩織は達也の背中に頬をそっと寄せた。じっと前方を見つめて漕ぎ続ける達也。
「英輔の匂いがする。だんだんそっくりになっていくね。毎年、来るたびにびっくりしちゃう」
「兄貴になれたらなあって思ったこともあるよ」
「だから、つらいのよ……」
峠道を上りきると、急カーブがあり、その先にひらけた退避スペースが海側に突き出ていた。詩織は仏壇から拝借した花をガードレールの下に供えた。
「どうして急にここへ来ようと思ったの? 今までずっと行きたくないって言っていたのに」
「よーく目に焼きつけておこうと思ってね」
大きく深呼吸した詩織は、さっぱりした顔で振り返った。
「よし、帰ろうか!」
「その前に、返してあげようよ」
達也が自分自身の右手を示す。彼の薬指には、何もはめていない。しかし、詩織の薬指には英輔からのプレゼントを、毎年この日だけつけていた。
「せっかくここまで来たんだ。兄貴に返さなきゃって、ずっと思っていたんだろ」
詩織は無意識に指輪に触れいた。
「詩織さん、いつまでも未練タラタラで、みっともないよ」
達也は催促するように手を差し出してくる。詩織は指輪を抜き取ると、思いきり海へと放り投げた。達也はぽかんと眺めているだけ。
「バイバ~イ!」
詩織は海に向かって両手を口に添えて叫んだ。
「バイバ~イ!」
「バイバ~イ!」
達也も横に並んで声を張り上げた。交互に、交互に、交互に。
今、停留所にバスが停まっている。開け放たれたドア越し、車内の詩織と路上の達也は向かい合って挨拶を交わした。
「タッちゃん、また来年ね」
「うん、また来年」
いつもの約束。けれども、もう二度と会えないことを分かっていた。笑顔の二人をドアが遮断した。
どんどん遠ざかっていくバスを、達也は見送っていた。
「あー、フラれちゃったね」
堤防の上にマコがいた。達也は自転車を押しながら歩き出し、マコも同じ歩調で堤防を行く。
「仕方ねえから、雇ってやるよ」
「仕方ねえから、働いてやるよ」
誰もいないバスの一番後ろの席。詩織はスマホにメッセージを打ち込み、恋人へ向けて送信する。
バスがトンネルに入り、すべてが闇に包まれた。