文学大賞 本編部門02
作者:桂洛太郎
ジョン・ハリスが戦場から戻ってきたのは、冬の終わりだった。
ワシントンの空港に降り立った瞬間、白い息が見えた。
人々の歓声、拍手、星条旗。
その喧騒の中に立っている自分が、まるで別の世界の住人のように感じられた。
戦地での記憶は、夜ごとに蘇る。
銃声、砂埃、誰かの悲鳴。
それを思い出すたび、ジョンは息が詰まった。
故郷の町に戻ると、母が玄関で泣いていた。
「帰ってきてくれて、本当にありがとう」
ジョンは笑おうとしたが、頬がこわばって動かなかった。
ジョンは三十五歳。
イラクで五年間、歩兵部隊に所属していた。
復員後は、州の小さな警備会社で働くことになっていた。
だが、初出勤の日、ジョンはドアノブを握ったまま動けなかった。
手の中が汗で滑る。
「お前はもう兵士じゃない」と頭ではわかっているのに、心が追いつかない。
そのまま、家に引き返した。
それ以来、彼はほとんど外に出なくなった。
部屋には、戦地から持ち帰った小さな写真が飾ってある。
笑顔の少年と、自分。
その少年――アミールは、現地の子どもだった。
村で水を運ぶ仕事をしていた少年。
彼がジョンにくれたのは、小石一つ。
「これは幸せを呼ぶ石だ」
拙い英語でそう言って、笑った。
――だが、その三日後にアミールは、爆撃で死んだ。
夜、眠れない。
夢の中で何度も銃を撃つ。
撃って、倒れて、目を覚ます。
そして気づく。ここはもう戦場ではない。
けれど、耳の奥で今も誰かが叫んでいる。
ジョンはキッチンの隅にあるコーヒーポットを手に取り、黙って湯を注いだ。
外は静かだ。
風の音、犬の遠吠え、時折通り過ぎるトラック。
そんな穏やかな音が、なぜか怖い。
戦場では、静寂こそが死の合図だった。
その記憶が、身体に染みついている。
ジョンの家の向かいに、リサという女性が住んでいた。
彼女はシングルマザーで、七歳の息子を育てている。
ある日、リサが玄関先で息子のトムを叱っていた。
「もう! ボールは車道に出さないの!」
その声を聞いたジョンは、カーテンの隙間から外を覗いた。
ボールが転がってきた。
ジョンは無意識に立ち上がり、急いで玄関を出るとそれを拾った。
トムが駆け寄ってきて、はにかんだ笑顔で言った。
「ありがとう、おじさん!」
ジョンは言葉を返せず、ただうなずいた。
その小さな声と笑顔が、なぜか心の奥に響いた。
翌日、リサが焼いたクッキーを持ってきた。
「お礼に。あの子、あなたのこと気に入ったみたい」
ジョンは遠慮がちに受け取った。
「……ありがとう」
声が少し震えた。
リサは微笑んだ。
「私の弟もあなたと同じ兵隊で……アフガンに行ってたの。帰ってきたけど……少し変わってしまって」
そう言って、目を伏せた。
ジョンは返す言葉を持たなかった。
「変わってしまった」――それは誰よりも自分が知っている。
クッキーを一つかじると、甘さが胸に沁みた。
涙が出そうになるほどに。
それから、トムはよくジョンの家の前で遊ぶようになった。
ジョンはカーテン越しにそれを眺めるのが日課になった。
ある日、トムが声をかけてきた。
「ねえ、おじさん、キャッチボールしようよ!」
ジョンは戸惑った。
「俺は……ちょっと、上手くないんだ」
トムは笑って言った。
「僕だって下手だよ!」
ジョンは思わず笑った。
そして、久しぶりに外に出た。
冷たい空気が肺に入る。
ボールが手から離れる音が、やけに心地よかった。
その日から、週に数回、二人は公園でキャッチボールをした。
最初はぎこちなかったが、だんだん自然な笑いが戻っていった。
ボールの音が響くたびに、胸の奥に溜まっていた何かが少しずつ溶けていくようだった。
リサはベンチからそれを見ていた。
ある日、静かに言った。
「ジョンさん、あの子、あなたといると楽しそう」
ジョンは小さくうなずいた。
「俺も……久しぶりに、生きてる気がします」
春が来た。
ジョンは家の庭を掃除し始めた。
アミールの小石を、玄関の横に置いた。
陽の光が当たって、淡く光った。
トムがそれを見つけて言った。
「これ、何?」
ジョンは微笑んだ。
「友達にもらった石だ。幸せを呼ぶんだ」
トムは目を輝かせた。
「僕にも、そんな友達できるかな?」
ジョンは答えた。
「きっとできるさ。君が優しいままでいれば」
夜、ジョンは窓を開けて外を眺めた。
風が柔らかい。
あの戦場では、風はいつも熱く、砂と血の匂いが混じっていた。
でも今は違う。
静かな夜に、トムの笑い声が遠くから聞こえた。
ジョンは目を閉じた。
アミールの声が、風の中に重なったような気がした。
「ハッピー・ストーン、ジョン!」
小さく笑って、つぶやいた。
「ありがとう、アミール」
朝。
ジョンは鏡の前に立った。
久しぶりに髭を剃り、シャツに袖を通した。
リサとトムが、町のイベントに誘ってくれたのだ。
玄関を出ると、太陽の光がまぶしかった。
トムが手を振っている。
ジョンは小さく手を上げて応えた。
もう二度と、戦場には戻らない。
ここでなら、生き直せる――
彼は空を見上げた。
そこには、どこまでも広い、静かな青があった。
Opinions
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とても良い作品だと思いました。桂さんにとって「戦場」とはこの社会の現実を示していると思いました。その現実に少しずつで良いので関わってみてください。一歩一歩ですね。
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啐啄同時という言葉が、ふと頭をよぎりました。
Permalinkリサとトムが温もりを手渡してくれたことと、母に泣かれても頬を強張らせていたジョンがそれを受け取れたこと。
リサ母子が優しかったからというだけではなく、ジョンの中で準備が整ったから外へ出られたのかもしれないな、と思いました。