文学大賞 本編部門07
作者: 泊木空
三年間も引きこもっていた。
引きこもりとはいっても、ドアの前に食事を置かれて
「お願い……。出てきて……」
と言われるような類のものではない。
親に食事へ誘われれば、死んだような顔で味のしない食事を楽しむことが出来たし、買い物に誘われれば、カルディの棚に押しつぶされて死ぬ妄想が止まらずパニックになったりしたものの、まあなんとか外出することはできた。
外の世界は怖いが、一人きりの部屋も怖い。音楽だけが唯一の救いだった。ある日、サイモン&ガーファンクルを聞こうと思ってスピーカーから流したら、妙な考えが浮かんだ。
僕が今この部屋で死んだら、スピーカーはずっとサイモン&ガーファンクルを流し続けるんだろうか。
それはなんだかダサい、そんな気がした。だってベスト盤だし。カートコバーンがR.E.M.をかけたまま自殺するのとはわけが違う。引きこもりがベスト盤かけて野垂れ死んだら、とんだ笑い種だ。
このままじゃまずい、僕はそう思った。こんな生活はやめだ。社会に参加するんだ。この部屋を出て、主を失った空間に本当のサウンド・オブ・サイレンスを響かせるんだ。僕は決意した。
脱引きこもり計画の第一弾として、フェスへ行くことにした。
三年間も親に迷惑かけて最初にやることが遊びかよ、と思ったそこのお前! 笑ってもいいけど、まあ聞いてくださいよ。
当時僕を担当してくださったカウンセラーの先生によく言われていたことがある。曰く、
「あなたには成功体験が足りない。高校は不登校、バイトは一か月で飛ぶ。なにか自分で計画して、やり遂げてみなさい」
それでフェスに行ってみようと思った。僕は音楽が好きだ。眠れない夜はヘッドホンで音楽聞いて、やけくそダンスで乗り切るくらいに音楽が好きだ。なのに、僕は一回もライブを生で見たことが無かった。笑えるでしょう? 満場の嘲笑をどうもありがとう。
調べてみると地元でフェスが開催されるらしい。しかも、参加するミュージシャンは僕が好きな人たちばかりだ。ツイてるツイてる。当たり前やろうが! 音楽の女神に何万時間と祈りを捧げてきたんだから。僕は音楽の敬虔な信徒だ。金が無いからあんまり寄付はしてないけど。たまにはパーッと寄付してやろう。そんな気持ちでチケットと宿を取った。
当日の朝、会場へ向かうバスの中はなんだか居心地が悪かった。挙動不審な僕をカメラが捉えていて、右上のワイプで誰かが笑ってるんじゃないだろうか。はじめてのおつかいみたいに。乗り換え地点についても、嫌な妄想はこびりついて離れなかった。次のバスを逃すと、開場時間までに辿り着けないと分かっていても足が動かない。こうなりゃヤケだ。放送できないようなことをしてやろう。そう思って近くの薬局で咳止めを買った。いわゆるODというやつだ。
何? 貴様は引きこもりの上に、そんなものにまで手を出しているのか、と思ったそこのあなた! そうなんです。中島らももこんな文章を書いていましたね。
酷い鬱で高校へどうしてもいけなかったときに、咳止めを飲んで無理やり登校していた。深甚な中毒に陥ってから苦労して辞めたが、もう一度飲むなら今だと思った。何せ今から行くフェスの初日のトリは電気グルーヴで、二日目のトリは岡村靖幸だ。どちらもだいすきですけどね。彼らに比べれば咳止めなんてかわいいもんだ。
いやぁ人はときに間違いを犯すものだ、とかなんとかモゴモゴ言って僕は咳止めと再会した。バス停まで距離があったので、歩きながら飲もうとしたら手が滑って咳止めの瓶を落としてしまった。ちくしょう。朝だというのに車でいっぱいのパチンコ屋の前で、糖衣錠と割れたガラスが散らばる。惨めだ。でもちょっと綺麗だ。焦って拾い集めたらガラスで手を切って、白い錠剤は赤に染まった。酷く惨めだ。それも自業自得の惨めさだ。こんな日に限って、着ている服が真っ白のシャツだ。もうイチゴアイスみたいな柄になったけど。情けねえなぁ……、せめて飲み方くらいは男らしくやってやんよ、とガラスごと錠剤を飲み込んでやった。
このシャツ、結構血付いちゃったけど鼻血ってことにして誤魔化せるかなあ。そんなことを考えているとバス停に着いた。幸いバス停にトイレがあったので、鏡で自分を見てみる。血の着いたシャツがダサくて思わず笑った。笑ったら口の中も血まみれだった。ガラス瓶のせいだ。いやぁ愉快だ。これじゃまるで重度な歯槽膿漏患者か、常に剃刀を携帯するパンクスだ。可笑しくてしょうがない。効いてきたのかもしれない。
会場に着くと入り口でリストバンドを渡された。スタッフの人が
「二日間外さないでください、破れてしまうと入場できなくなります」
と言っていた。僕はこういう言葉を聞くと、起こりうる最悪な状況を全力で妄想してしまう。もしや、フェスでの喧嘩はこんな感じなのかも、と。
「おい兄ちゃん! どこ見て歩いてんだよ!」
「いや、ただ前見て歩いてただけでして……」
「お前の前が全員にとっての前だと思うなよ!」
で、リストバンドをブチっと。もちろん、僕はやられる側だ。
大変な所に来たものだ。
初日が終わり、僕はへろへろに疲れ、べろべろに酔っぱらって宿に帰った。
フェスはとてもすばらしかった。どこを向いても幸せそうな人たちで溢れている。美味しいお酒とご飯もたくさんある。そして、音楽がある。音楽家たちは確かに生きていた。ライブというものは、まさしく祈りだと思った。スピーカーやヘッドホン、CDやDVDの中にしかいないと思っていた神様が、我々愚民の前に顕現してくださる。ギターで、マイクで、シンセサイザーで我々を殴ってくださる。生身の音楽は想像よりもっと暴力的だった。暴力にさらされてこそ、生というものを実感できるのだ。
このフェスに点をつけるとしたら九十点だ。本当は満点をあげたいが、僕という惨めな人間の参加を許したからペナルティで十点減点だ。
幸せまみれの空間に、僕は溶け込めなかった。笑いかける相手も、感想を言い合う仲間も僕にはいない。みんなみたいにお洒落じゃないし、はしゃぎ方も分からない。たしかに楽しいはずなのに、焦燥感に襲われる。みんな僕を馬鹿にして笑ってるんじゃないだろうか、僕を疎んでいるんじゃないだろうか。そんな考えを酒と一緒に飲み込んでいたら、金も気力も無くなってしまった。
トリのライブが終わっても、観客は興奮冷めやらぬ様子で会場にとどまっていた。みんな笑顔で酒を酌み交わし、今のヤバかったねと言い合う。僕は虚しくなって彼らに背を向けた。会場から離れて、宿に向かっていると背後でドン、と大きな音がした。振り返ると花火が打ちあがっていた。遅れて、まだ会場に残っている人たちの歓声も聞こえる。なるほど、邪魔者が居なくなって本当のパーティが始まるってわけだ。そうすると今のは祝砲だな。
惨めだな、本当に惨めだ。苦しいな。こんな気持ちになるのなら、ずっと部屋にこもってればよかった。どうせどこにいたって僕は一人ぼっちだ。キャーキャー騒いでばっかりの馬鹿どもめ。ちょっとは僕を愛してくれ。クソが。死んじまえ。僕が。
宿の部屋にこもって、浴びるように酒を飲んだ。このまま死んじまえばいいんだ。ここで死ねば、僕は音楽に迷惑をかけないですむ。引きこもりにしちゃ、よくやった方だ。違う部屋で死ねるんだから。視界がぐるぐる回る。自己嫌悪は回るたびに加速していく。臨界点を超えて、すべてがピタッと止まった。
その夜、僕は夢を見た。枕元に、ええ、私が神様です、というような雰囲気の老人がいた。老人が僕に話しかける。
「オマエ、切り裂きジャックって知ってるか」
「知ってます。昔、ロンドンで娼婦をいっぱい殺した奴ですよね」
「それなら話は早い。オマエ、明日から切り裂きジャックになれ」
「僕が……?」
老人は嫌な笑みを浮かべた。
「切り裂きジャックという悪魔は、ときおり何かを切り裂かないと暴れてしまうんだ。天界がズタボロになるのはもうこりごりでね。だからこうして、世の中に不満を抱える奴を探しては憑依させるのさ」
マジかよ。あいつ悪魔だったんか。てか、何かを切り裂いた時点で、それもう暴れてる内に入るやろ。嫌だなぁ、ついに僕もお縄か。傷付けるのは自分だけって決めてたのになぁ。自分に悪意を向けるだけでもこんなに辛いのに、他人に向けるなんて怖いなぁ。
震える声で僕は聞いた。
「誰を殺せばいいんですか……?」
「オマエの自由だ。それに、切り裂く対象は人間じゃなくたっていいんだぜ」
老人はにたにた笑っている。
「自分自身を切り裂いたやつだっている。国を真っ二つにした奴もいる。縁を切った奴もいたな。まあ一番多いのは、気にいらない人間を切り裂くタイプだな」
気に入らない人間、か。僕は今日のフェスを思い返した。幸せそうに大勢で集まって、僕を疎外するあいつらを思い出した。どうせ明日もみんなで僕をいじめるんだろう。そうやって僕をのけ者にして、僕を嘲笑って幸せになるんだろう。何を迷うことがあるんだ。やっちまえ。
「何を切り裂いてもいいんですね?」
もう声は震えていなかった。
『次のニュースです。今朝十時ごろ、山梨の人気フェス会場で、リストバンドを大量に切り裂いた男が逮捕されました。調べに対し男は「僕はリストバンド切り裂きジャックだ」、「誰も殺したくなかった、こうするしかなかった」などと供述し、容疑を認めているということです。警察は、男が血の付いたシャツを所持していたことから、他の事件に関与している可能性もあるとして、余罪も含め詳しく調べを進めています。続いて次のニュースです。夫婦茶碗金継ぎエースが……』