文学大賞 本編部門14
作者: なんようはぎぎょ
飯村アモの職場にはテーマソングがあって、社名と低価格とルンルンルンを15秒で歌ってループする。アモはそれを店内で、週5で毎日9時間聞いた。歌はしまいに脳内ループして、休みの日にも夢の中でもループした。ルンルンルン、ルンリー♪ ルンリーショップ♪ 安さが爆発激安ルルンルン♪ ルルン♪
『四番線、ドアぁ閉まります。ご注意ください、四番線ドアぁ閉まります』
アモは茶色のトイレ用スリッパで、JR総武線に乗り込んだ。ドア付近ですぐに立ち止まり、続けて乗車をした男と女にぶつかった。
金曜日の17時、叩きつけるような真冬の風が吹く。夕暮れとイルミネーションと積もった泥雪が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って溶けている。電車内は混み合い空気が悪く、誰かの呼吸と胃腸炎の香りが漂った。
アモは薄い黒シャツにスラックスに、黄色いエプロンを掛けていた。エプロンの腹ポケットには『ルン子とリン太』不細工なペンギンの柄が入って、ルン子の位置でスマートフォンが震える。
ルンルンルン、ルンリー♪ アモの視界は水中を漂うように、透明な膜を張っていた。景色は呼吸とともに波打つ。ルンルンリー♪ 脳内で歌が鳴り続ける。
車窓が風を受けてガタガタと鳴っている。アパートの並びに電線が絡まって、雑踏も常夜灯も黒い影の渡り鳥の群れも、氾濫して流れるヘッドライトも全て、溶けあって吹っ飛んで後ろへ遠ざかる。
顔を上げると、アモは風に打たれていた。いつの間にか下車をして、最寄り駅を歩いていた。空は暮れ、ロータリーでは踏みしめられて凍った雪が行き先を埋めている。路地を曲がって老人とぶつかり、街灯が増えて商店街へ抜けた。痛いほど静かな世界は、一面に光を湛えていた。
居酒屋のネオンの下を通ると、ドアがスライドして開き、男女三人が出てきた。
モコモコの服を着た布団の簀巻きみたいな女と、黒のダウンコートの男が二人。女は足元がおぼつかず、男二人に支えられている。
「んあぁ?!」
がくんと女が頭を揺らして叫んだ。表情が酒で溶けている。
「ん? どしたのマコたん」
「マコたんもうお店出まちたよ、しっかり歩いて~」
コートの男二人は、双子のようによく似ていた。
「あれぇあ、ルンイーショップいるよぁ、ルンショの店員いるぁ。何れこんなとこいんおぉ?」
アモが歩みを止めると、「ああっ!?」女は体をのけぞらせて叫ぶ。
「なんっ…何だしお前ぇっ! ルンショのぉ? 店員!」
「…ン…ルン……」
「店員ッ! 何見てんのっつってんろぁ、つああぁ?」
「ルン…ルンルン……ルンリー♪」
「つあぁあ!?」
「マコたんマコたん、落ち着いて」
「ハハハすみませーん」
男二人と女は、固まりになって全身をゆらゆらさせた。
「らぁってぇ~~!」女が頭を揺する。
「らってぇ、あいつがぁ店員があぁ~」
「ハハハ、ほらほらマコたん」
「マコたん酔いすぎ、心配だから休んでこ? ホテル行こ、ね、良いよねホテル行こ?」
「らぁってぇえ~~!」
アモは立ち去った。ルンルン、ルンリー♪
この町では外国人の解体屋が、毎日どこかで家を破壊している。半壊した民家の中央からショベルカーが斜めに生えた敷地で、アモは尖った石を盗んでエプロンのポケットに入れた。変色したスリッパの中で、濡れた爪先が痛んだ。
アモの家は古い団地の二階で、到着して鍵を探すとリュックがない。職場のロッカーに置いてきていた。愛用のナイキのスニーカーは、従業員トイレに置いてある。
アモは黄ばんだ玄関ブザーを押して、解放廊下でたっぷり10分、風に叩かれた。
母親は夜勤だし、弟はだいぶ前に家出した。不快感がわだかまる。鍵は明日の朝まで開かない。
一階の庭に降りて、外からベランダにしがみつく。柵の上に立つと、胃の中身がせりあがった。重い足を持ち上げて、スリッパを落として、地上で軽く音が鳴る。
腹這いで日除けの屋根に乗り上げ、雨どいを掴んで上へ。すぐに後悔したが、意識して上を向いた。
雨どいが軋む。月明かりが町を照らしている。紺碧の空に雲が流れた。二階ベランダの柵に必死でしがみつき、乗り越え両足で着地する。肺が痛い。両手で掴んで石を振るうと、窓ガラスはあっけなく割れた。
ガラスの割れ目にソロソロと手を入れ、鍵を開く。背筋にたまる恐怖が、足の裏から抜けていく。カーテンをくぐって、ガラスの破片を踏んだ。アモは痛みを認識しなかった。喉が鳴って、トロッと涙が出てくる。
リビングは停滞する空気があった。決して流動せず、無人でじんわりと温かい。
建築材の黴(かび)臭さに、沈み込むような出汁(だし)の残り香。服と靴下をどろりと脱ぎ捨て、手を洗う。指先が震えていた。
冷蔵庫を開けると中にルン子がいたので閉じて、湯を沸かしてカップ麺を作る。湯気が視界いっぱいに広がった。ルンルン、ルンリー♪ 窓からの風でカーテンが広がる。味がない。頭がぼんやりして眠り足りないと思った。
*
『飯村さんは、人を見下していて協調性がありません。まだ未成年だから良いけど、今後苦労すると思います』
『えー? でも本人は気にしてなさそうだし、良いんじゃない、個性よね?』
『でも従業員同士の円滑なコミュニケーションも仕事のうちですよ、店長も困るって言ってたじゃないですか』
『そうねぇ、まぁ、困ってはいるんです。それで、こうしてみんなで話し合いの場を設けた訳です。それについて飯村さんはどう思うの。聞いてる? あなたの事よ。ボーっとしてないで、飯村さん? 少しは悩んだりしないの?』
「うるさい、お前が私を決めるな」
目を開けた、アモは自分の声で目が覚めた。窓が全開で、風に全身を叩かれて痛い。夢うつつのまま、窓を閉めようとベッドから起き上がると、窓は閉じていた。空気が冷え切っていて全身が痛い。
自室は床からベッドの上まで、衣服やゴミで荒れている。眼球の奥が痛む。リン太が歌っている。ルンルン、ルンリー♪
リン太は天井に張り付いている。リン太は増殖してルン子とリン太になった。世界が揺れ、目を閉じる。歌は止まない。
ルンルン♪ ルンルンルン、死ね! ルンルンルン、大丈夫、死ね!
『えー嫌われてる? 気にしすぎよぉ飯村さん。マネージャーだって悪気はないのよぉ、冗談よ冗談! ほら笑って(笑)』
「は?」
荒れ果てた部屋の中で、丸まった服が動いてリン太が出てくる。『冗談だ!』リン太は増殖した。
『冗談(笑)』
『冗談じゃあしょうがないね。だって冗談じゃあもう、そこから何も反論できない(笑)』
アモの呼吸が荒くなる。ルンルンルン、歌は止まない。酷い音がした。外国人がショベルカーで町を破壊している。
『家の中は安全』
『眠り足りないなぁ』
『ペンギンも冬眠するのかな』
「ねぇリン太。私ね、小さい頃、何にでもなれるって、この世界は自分のものなんだって、思ってたよ」
『それはおかしい(笑) 頭がおかしいね!』
『冗談だ(笑)』
店長がけたたましく笑い声を上げた。「飯村さんって、もしかして何か特性でも持ってる? 診断とか受けたことあるぅ? あ全然悪い意味じゃないのよ! それって個性だし、才能なんだから!」
風の音が強まる。
『家の中は安全!』
『外はきっと吹雪だ』
ビルも国道も電線も、お店もバックルームも辞めた高校も、波を作ってうねっている。
『アモには冬眠が必要だ』
「(笑)」
次に目覚めると、光線で顔を射(さ)されていた。カーテンの隙間から光が差している。
窓を開けると、冷たい風がなだれ込み「あっ」声が出た。外は一面、光を弾いて銀色に輝いていた。
電線を延々コピペしたみたいな町を、白い雪が覆っている。窓から乗り出すと、「ギャッ」びちゃりと水滴が落ちてきて頭に掛かった。
『ギャー』『ギャー! ギャアー』
ペンギンたちはアモの代わりに叫んでくれる。
『だぁらねぇ、ダルいよなァこっちの事情とかさ、想像すらしてない訳じゃんか。はい初見さんいらっしゃい、コメントありがとー!』
無意識の習慣で、スマホの動画アプリを開いていた。陽気な少年の声にBGMが重なる。
『そうなんだよ本当、全部ダルいよなァ。みんな生きてて楽しいのかな? はいこれ笑う所だから(笑)』
バラバラと合成の笑い声が重なる。スワイプで画面を変えた。
『警察は、容疑者を殺人未遂の現行犯で逮捕し、動機などを』
『アモちゃんいつも話聞いて無いくない? ハッキリ断らないアモちゃんが悪いくない?』
いきなり級友が喋り出す。
「だけど、私は、嫌だって、言いました」
外で男の声がして、ラジオ体操の音楽が始まった。窓から見下ろすと、家の裏に黒いワゴンが止まって、外国人たちが体操をしている。動きは揃わずダルそうだ。あの人たち生きてて楽しいのかな。
喉の渇きを覚えてリビングへ出る。
ドアを開くと、母親が真っ暗な食卓で座っていた。仕事から帰ったままの姿で紺のコートを着て、無造作に纏めた髪はボサボサ落ちている。
風でカーテンが広がり、割れた窓が煌めいた。キラキラの朝日が、目に染みる親の白髪を、食卓いっぱいのゴミを、無数に飛ぶ糸虫に似たホコリを鮮明に映し出す。
『冗談だーーー!』ルン子が突然絶叫して、アモは顔の筋肉を引き攣らせ、喉をグッと鳴らして思わず吹き出した。母親と目が合った。
母親は疲労が滲んだ顔で、透明な目をしていた。薄ら青い口元とこめかみが引き攣り、ゆっくり無音で開閉する。アモは慌てて自室に逃げ込んだ。心臓がギュッとなる。
遅れて母親がわざとらしく泣き声を張り上げた。声はアモに聞かせる為に、高くなり低くなり、部屋の中まで響いてくる。
外の外国人たちが解体作業を始めた。音を立て粉塵をまき散らし、家を、町を破壊する。全てを瓦礫に変えて美しい更地を作り出す。
アモは自室を施錠した。中学生の頃「毎日学校に行くから」と約束して、つけてもらった鍵。床の上で、リン太だった塊はレジ袋になっていた。
胸苦しさにペンギンたちと歌をうたって、カーテンを引いて布団を被って目を閉じる。
この小さな場所だけは、どうか私のものでありますように。