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応募作品26

私は母になり、ひきこもりになった

<原文あり>

ペンネーム:Fukushima Genshiro

幼少期が終わった日のことを思い出す。1996年、祖母が亡くなった。祖母は重病だったので、私たちと一緒に暮らしていた。祖母はナチスからユダヤ人を避難させた戦争の英雄で、祖母の年金は私たち家族の収入の大きな部分を占めていた。母は義母と二人の子どもの世話をずっとしていた。祖母がいなくなって、母はやっと仕事に戻れるようになった。母は何の経験もなかったので、最低賃金の郵便局の仕事に就いた。

母は自分の境遇の犠牲者だった。弟妹がいたため、16歳で孤児になった。お金目当てで結婚したのは間違いない。父と母は職場で知り合って、結婚したのは、母が19歳で、父が42歳のときだった[1991]。二人は急いで子供を作った[1991,1993]。父はソビエト時代にはかなり裕福だったが、ポーランド円卓会議[1989]により計画経済は終焉を迎え、父が働いていた財閥は私が生まれてすぐに倒産した[1994]。状況は一転し、裕福な独身男性から苦しい一家の長になってしまった。

私は修道女が経営する保育園に押しつけられた。お金がかからないこともあり、彼女たちは私を年上の子供たちと一緒のグループに入れた。彼らは私がとても小さいこともあり、私を避けていた。 私は年老いた修道女とほとんどの時間を過ごした。その修道女は私の祖母によく似ていた。彼女の名前はラテン語で「幸せ」を意味する「ヒラリア」だった。私たちは一緒に昔のテレビ番組をたくさん見たが、私のお気に入りは「将軍」だ。島田洋子の着物姿の美しさが印象的だった。教会の絵に出てくる聖人かと思った。三船敏郎の侍の一人になったふりをしていたら、年老いた修道女に笑われた。それは私にとって最も幸せな思い出の一つであり、日本のあらゆるものへの愛の源だと思っている。

私は慢性的な肺炎を患っていたので、入院が多かった。祖母が寝たきりだったので、母はお見舞いに行けなかった。病院は家から40キロほど離れた、父が働いていた街の中にあった。父は毎日お見舞いに来てくれた。私はいつも父のことを第一の介護者だと思っていた。自分を守るために母とは疎遠になっていたと思う。私は母から愛情を受けていないが、見捨てられるのが嫌で関係を拗らせていた。

私は母を裏切ってしまったと思う。彼女は貧困から中流階級の上位層まで這い上がった。二人の子供を育て、大学に通いながら、二つの仕事をしていた。彼女はいつも「おばあちゃんが自分のような性格だったら、社長になっていただろう」と言う。母から電話がかかってくるたびに、私は震えている。母からすれば、私は失敗作。母は、人の価値は生産性で決まると思っている。お金を持っていれば持っているほど価値があるのだ。

私はずっと現実逃避をしてきた。人生で恋しいと思ったこと、例えばロマンスや冒険のようなものは、フィクションの作品の中では簡単に手に入る。母は私立学校のために多額のお金を払ってくれたが、私はゲームをするために授業をサボっていた。学校は私にストレスを与え、授業は厳しすぎた。私は文系の方が向いていたが、母は医学部に進学するように言った。自分の娘が医者になることは母の夢であり、社会的ステータスの最後の勲章だった。私はそのプレッシャーに耐えられなかった。大学受験が終わったら人生を終わらせたかったが、計画を立てる時間が必要だったので、化学の学位を取るために大学に入った。

岬ちゃん(※アニメ「NHKにようこそ!」のヒロイン)は来ないと言われているが、私には彼女のような人がいる。眠れない夜、夫という無口な謎の人物を見ながら、なぜ私を選んだのだろうと考える。彼はあの大学の授業で私を見つけてくれた。彼は命の恩人だ。

ネットでは言わないけれど、私は母親だ。息子は生後16ヶ月。今では母性なんて古めかしいけれど、私はずっと母親になりたいと思っていた。妊娠しにくい体質と診断されたが、彼を授かることができたのは非常に幸運だった。妊娠はとても簡単だったが、出産で死にそうになった。そのせいでPTSDになった。回復するのに時間がかかった。赤ちゃんは感染症で生まれた。医者は彼を新生児集中治療室に入れた。私は心的外傷による脳の損傷が疑われ、検査のために入院しなければならなかった。私は以前クリニックで働いていたので、医師は全員名前を知っているはずだったが、誰が誰だったか思い出すことができなかった。そして、よく吃音もしていた。5日後には少し良くなり、MRIで脳に異常がないと診断され、退院した。赤ちゃんは肺炎でさらに7日間ほど新生児治療室に入院することになったので、昼も夜も椅子に座ってそばにいた。人生でこんなに疲れたことはない。

地獄が現実にあるとしたら、それは新生児室だ。私の赤ちゃんは臨月産(42+2週)で、体重は4.2kg。そこにいた一番小さい赤ちゃんの10倍の重さだった。早産で生まれた赤ちゃんはとても不公平だ。彼らは生まれた直後にただ生きるために戦わないといけない。私は苦しそうに息をしている赤ちゃんを抱きながら、保育器の隣にいる両親を見て、機械の音に耳を傾けた。彼らは息をするたびに祈り、赤ちゃんが飲んだミルクの量を祝福していた。それを見るのは、魂を砕くような経験だった。あの場所で感じた恐怖によって、今でも悪夢にうなされる。二度と妊娠しないように神々に祈っている。もうあそこに足を踏み入れたくない。

病院から解放された日は晴れていたが、家に歩いて帰った途端に雨が降り出した。空が私たちのために幸せな涙を流してくれているような気がした。看護師に自宅訪問をしてもらったが、感染症にならないように家にいた方がいいとアドバイスしてくれた。もう病院には行きたくなかった。まだ疲れが残っていて、産後うつ病だったため、一日中赤ちゃんと一緒にベッドに横になっていた。

今思えば、病院でのトラウマが私をひきこもりにしたのだ。いつも自分の殻に閉じこもっていたので、社会から引きこもるのは、傷つきやすいことへの自然な反応だった。夫もかなり内向的な性格なので、私たちがずっと家にいることを気にしていなかった。赤ちゃんを連れて公園に行くために家を出ることもあったが、他人を避けるようにしていた。赤ちゃんが生後3ヶ月になった頃、夫がまたポケモンGOを始めて、赤ちゃんを連れて行ってくれるようになったので、私は公園に行く必要もなくなった。

食料品や化粧品、洋服などの買い物はネットで済ませた。家から出る必要もなかった。義母に文句を言われないように、義母のところにお茶に行くこともあった。人を避ければ避けるほど、人付き合いは疲れるものだった。夫と赤ちゃんとしか話をしなかった。吃音がひどくなって、ほとんど喋らなくなってしまった。言いたいことはたくさんあったけれど、なかなか吐き出せなかった。

バックグラウンドノイズとしてたくさんのバーチャルYouTuberを見ていた。観ているのがとても心地よかった。ニュースで初音ミクを見て以来、大の初音ミクファンだ[2010年]。バーチャルアイドルという発想が大好きだ。それはとても未来的。ミッチーMが「アイドルを咲かせ」という曲を世に送り出したのは、夫に誘われて付き合った頃で、バカみたいだけれど、私の自尊心を高めるのに役立った。私の夢は、そんな力を人に与えることだった。

YouTubeに自分のチャンネルを立ち上げて、いくつかの動画を投稿した。私のキャラクターは地下室に住んでいるニートだったので、ほぼ同一人物だけれど、そこでは核家族のことは一切触れていない。YouTubeで自分以外のひきこもりの動画を知った。苦労しながらも戦い続ける人たちの姿を見て、勇気が湧いてきた。

ひきこもりの多くは、親に失望したと言っていた。それは私の心を打ちのめし、多くのレベルで共感することができた。私の目には、彼らは繊細で純粋な心を持った人たちで、この世の残酷さから身を隠す必要があるように見えた。私は叫びたかった! もし私の赤ちゃんがそのような子になったら、私は地球上で最も誇りに思う母親になるだろう。心の優しい人が一番価値がある。人は多くの悪をもつと思うので、本当に心の優しい人は絶対的な宝物だ。

私の心は赤ちゃんへの愛で満たされているが、母のために壊れてしまう。お互い望んでいないのにこんな関係になってしまった。私は赤ちゃんのために最高の母親になりたい、だから元気になりたい。もう落ち込みたくない。赤ちゃんを公園に連れて行きたい、赤ちゃんが大きくなったら学校の劇を見たい、そばにいてあげたい。家から出ない変な母親がいれば、他の子にいじめられる原因になるかもしれないし、そんな目に遭ってほしくない。

抗うつ剤を飲み始めたので、セラピーを申し込んだ。私はとても疑心暗鬼な性格なのでやりたくないが、改善への道は自分の居心地の良い場所の外にあることを知っている。

ひきこもりの親なら、これを教訓にしてほしい。子どもとの関係を大切にしよう。私は、母からは痛みしか与えられていないのに、今でも尊敬している。足りないと言ってはいけない、失敗作だと言ってはいけない。人が社会から離れるのは、深くて暗い恐怖があるから。彼らを苦しめてはいけない。

ひきこもりの人は、私が毎日あなたのことを考えていて、あなたが私にとって大切な存在だということを知っておいてほしい。絶望を感じていても一人ではない。ひきこもりはみんなともにいるのだから。それが私たちを強くする。あなたは愛されてる。今までも、これからも、あなたは十分頑張っている。あなたは時間を無駄にしているのではなく、あなたはまだ人生の中で自分の道を見つけようとしている、そのために時間を使うのは必要なことだ。助けを求めることを恥じる必要はない。あなたにはその価値があるのだから。

I remember the day my childhood ended. In 1996, my grandmother died. She was very sick, so she lived with us. She was a war hero who helped shelter the Jewish from the Nazis, and her pension was a huge part of our family’s income. My mother was looking after her mother in law and two kids full time. With Grandmother gone, she could finally go back to work. She didn’t have any experience, so she got an entry-level job at the post office.

My mother was a victim of her circumstance. She was orphaned at 16 and had younger siblings to support. I have no doubt she married for money. They met at work, she was 19 and he was 42 when they married[1991]. They rushed into having kids[1991,1993]. My Father was pretty well off during the soviet times, but the Polish Round Table Agreement [1989] brought the end to a planned economy, and the conglomerate where he worked got bankrupt soon after my birth[1994]. The tables turned and he went from being a wealthy bachelor to a struggling head of a family.

I was dumped at a daycare that was run by nuns. They put me in a group with older kids, because it was cheaper. They avoided me because I was much smaller, so I spent most of the time with an old nun, who reminded me of my grandmother a lot. Her name was „Hilaria” it means „happy” in Latin. We watched a lot of old tv shows together, my favorite was „Shogun”. Shimada Yoko’s beauty in her kimono was striking! I thought she was a saint from a painting in the church. I would pretend I’m one of Mifune Toshiro’s samurai, and the old nun would laugh at it. It’s one of my happiest memories and I think it’s the source of my love for all things Japanese.

I had chronic pneumonia, so I was in a hospital a lot. My mother couldn’t visit me because my grandmother was bed-ridden. The hospital was 40 km from home, in the city where my father worked. He visited me every day. I always thought of him as my primary caregiver. I think I grew apart with my mother as a defense mechanism- I lacked her affection, but I didn’t want to be abandoned, so I strained the relationship.

I know I stabbed her in the back. She crawled herself from poverty to upper-middle class. She worked two jobs while raising two kids and going to university. She always says „If my mother had been anything like me, I would have been the president”. Every time she calls, I’m shaking. I know I am a failure in her eyes. She thinks the worth of a person is determined by their productivity. The more money you have, the better you are.

All my life I’ve been escaping from reality. The things I missed in life, like romance or adventure, were easily accessible in the works of fiction. My mother paid a lot of money for my private school, but I would skip class to play games. The school stressed me, the classes were too hard. I’m more suited for liberal arts, but she insisted on pre-med. A doctor daughter was her dream and a final cherry on top of her social-climbing cake. I couldn’t handle that pressure. I wanted to end my life after university exams, but I needed to buy some time to plan it out, so I enrolled in university for a degree in chemistry.

They say Misaki (NHK) won’t come, but I have somebody like her in my life. During my sleepless nights, I look at the silent enigma that is my husband and I wonder why he chose me. He noticed me in class at that University. I owe him my life.

I never mention it online, but I am a mother. My son is 16 months old. Motherhood is passe nowadays, but I always wanted to be a mother. I got diagnosed with a condition that made other women infertile, so I’m extremely lucky to have him. The pregnancy was very easy, but I almost died giving birth. It gave me PTSD. I took a long time to recover. My baby was born with an infection. The doctors placed him in the neonatal intensive care unit. They suspected I suffered brain damage from the trauma, so I had to stay in the hospital for tests. I used to work at a clinic, so I knew all the doctors by name. I couldn’t remember who they were, I also stuttered a lot. After 5 days I improved a bit and the MRI showed my brain was fine, so they released me. My baby had to stay in the neonatal unit for 7 more days due to pneumonia, so I stayed by his side in the chair, day and night. I’ve never been so tired in my life.

If Hell is real, it’s in the neonatal unit. My baby was born late-term [42+2 weeks], weighing 4.2 kg and he was ten times the weight of the smallest baby there. It’s so unfair that some babies are born premature, they start the journey with a fight. As I held my wheezing baby, I watched parents next to the incubators, I listened to the machinery beeping. They were praying for every breath, they blessed every ounce of milk the baby drank. Seeing that was a soul-crushing experience. The psychological terror of that place still gives me nightmares.
I pray to all the gods there are I won’t get pregnant again. I don’t want to risk stepping my foot back there.

The day we were released was sunny, but the moment we walked home, the rain started pouring. I felt like the sky was crying happy tears for us. We got home visits from a nurse and she advised we stay home to avoid infections. I didn’t want to go back to the hospital. I was still very tired and had baby blues, so I laid in bed with my baby all day.

Now that I think about it, the trauma from the hospital made me a shut-in. I always kept to myself, so withdrawing from society was a natural reaction to being vulnerable. My husband is pretty introverted too, so he didn’t mind we were home all the time. I would leave the house to take the baby to the park, but I avoided other people. When the baby was three months old, my husband started to play pokemon go again and he would take the baby with him, so I didn’t even have to go to the park anymore.

I shopped for groceries, cosmetics, and clothes online. There was no need for me to leave the house. I would sometimes go for tea to my mother in law so that she wouldn’t complain. The more I avoided people, the more exhausting it was to socialize. I only talked to my husband and the baby. I got to the point where my stutter got worse, so I almost stopped speaking. I had a lot of things to say, but I couldn’t get it out.

I was watching a lot of virtual YouTubers as background noise. The medium spoke to me. I am a huge Hatsune Miku fan, ever since I’ve seen her on the news [2010]. I love the idea of virtual idols. It’s so futuristic! Mitchie M dropped his song „BLOOMING THE IDOL” around the time my husband asked me to go out with him,as silly as it sounds, it helped me build my self-esteem. My dream was to give such strength to people.

I started my channel and posted a few videos. My character was a neet that lived in the basement, so we’re pretty much the same person, but I never mention my nuclear family there. YouTube started suggesting me videos of other Hikikomori. Seeing people who struggled, but kept on fighting gave me courage.

Many hikikomori said they were a disappointment to their parents. It broke my heart, I could relate to it on so many levels. In my eyes, they were sensitive people with pure hearts, that needed to hide from the cruelty of this world. I wanted to scream! If my baby turned out to be that kind, I would be the proudest mother on Earth. A soft-hearted person is the most valuable in my eyes. I think there is so much evil in people, so a person who is truly kind is an absolute treasure.

My heart is filled with love for my baby, but it breaks for my mother. We robbed each other of this kind of relationship. I want to be the best mother for my baby, that’s why I want to get better. I don’t want to be depressed anymore. I want to take him to the park, I want to watch his school plays, be there for him. A freak mother that never leaves the house might be a reason for other kids to bully him, and I don’t want him to go through that.

I started taking anti-depressants and I signed up for therapy. I have a very skeptical nature and I don’t want to do this, but I know that the way to improvement is outside of my comfort zone.

If you’re a parent of a hikikomori, learn a lesson from this. Cherish your relationship with your child. I still look up to my mother, even though all she gives me is pain. Don’t tell them they aren’t enough, don’t call them a failure. People quit society because they have deep, dark fears. Don’t make it harder for them.

If you are hikikomori, please know that I am thinking of you every day and you matter to me. Even when you’re feeling hopeless, you’re not alone, because all hikikomori is in this together, and it makes us strong. You are loved. You are and always were good enough. You’re not wasting time, you’re still trying to find your path in life, and it’s ok to take your time. Don’t be ashamed to ask for help. You deserve it.




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Opinions

  1. Post comment

    あなたは愛されているんだよ。ストレートなメッセージが心に響きます。ひきこもっている場所が、自分がありのままでいられる、そして心安らぐ唯一の場所であるならば、その場所を無理に壊さなくてもよいのではと感じました。

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