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応募作品7

中井英夫と戦後日本思想

ペンネーム:蘭

中井英夫と戦後日本思想──月蝕領崩壊における引きこもりと柄谷的外部

 

 中井英夫が戦後日本を黒鳥として生きなければならなくなったのは、日本が敗戦したその夏を、腸チフスの罹患によって昏睡状態のまま過ごしてしまったことにある。手塚治虫が戦時中に『勝利の日まで』を書くことによって戦争体験を相対化しようとしたように、中井英夫もまた後に『彼方より』として発表されることになる反戦日記を書くことによって、戦争という現実を相対化しようとしていた。しかしその日記が終戦直前の昏睡によって断絶することで、奇しくも中井英夫は戦後日本が抱えていた「敗戦の否認」という問題を抱え込むことになった。つまり中井英夫は自らの意思とは無関係に、敗戦後という日本の歴史から流刑されたのだ。
 中井英夫の初期の代表作である『黒鳥譚』は、まず主人公の青年が、動物園の檻の中に幽閉されているタスマニア生まれの黒鳥に話しかけるところから始まる。その青年は終戦した年の冬に、檻の中の黒鳥によって奪われた金貨の返却を求めているのだが、黒鳥はその青年に対して「そんなもの、誰だっていまは持っちゃおりませんよ」と答えて、その青年が本当に求めているものが「金貨」ではなく「記憶」であったことを教える。
 中井英夫は本来、長崎と広島に原爆が落とされた直後に日ソ開戦が行われることで、戦時中の日本が「滅びの門」を潜り、自らもまた日本と共に破滅する予定だった。しかし中井英夫は終戦を伝える玉音放送も聞かずに、その日を昏睡状態のまま過ごしてしまった。中井英夫にとってそれは戦後に醜く生き残ってしまった恥辱の体験に他ならず、そのことが中井英夫の人生を決定付けることになる。
 つまりそれは中井英夫が戦後日本という歴史から流刑されて、人生そのものを「黒鳥=反世界という恥辱の虚構の中に引きこもらざるを得なくなった」ということを意味している。
 中井英夫は「敗戦後という歴史から疎外された」という体験を「黒鳥という恥辱の記憶」を通して表現することで、自らが抱えた「歴史からの疎外」という体験を解消したのである。
 たとえば同じ問題意識を抱えていた三島由紀夫や澁澤龍彦もまた、戦後日本的な問題の処方箋として、戦後日本という空虚な場所を虚構として生きていた。しかし澁澤が生産性から逸脱した無目的なオブジェの帝王として生きたのに対して、三島はそういった戦後日本的な虚しさに耐えきれず、かつて戦時中に三島が夢見た玉砕を──自衛隊市ヶ谷駐屯地のクーデター計画を起こして、戦時中の最終戦争を擬似的に再現することによって、戦後日本的な問題を強引に幕引かせたのだ。
 一方で中井英夫は三島由紀夫が自決を行った同じ年に、日本から見て地球の反対側にあるオーストラリアに行っている。そこで中井英夫は戦後日本という虚構=反世界を動物園の檻の中にいる黒鳥に託すことで、戦後日本という問題をそこに埋葬した。その時のことを綴った『オーストラリア幻想旅行』の中で、中井英夫はこう書いている。

 

 前にひとつ長い小説を書き終わったとき、これを書き上げさえすれば、少なくともどこか少しは見晴らしのいい、丘の上の展望台めいたところに出られるだろうと期待していたのに、前よりいっそう白々とした波がしらが牙をむくだけの“虚無の海”とでもいうところへ放り出されて慌てたおぼえがある。限りのない迷路、きりもない試行錯誤が約束されている以上、“出口なし”の不安は、出口のないことではなく、出口のあることの不安にほかならない。

 

 羽田空港のバスを囚人護送車に見立てた中井英夫は、自らの背負った宿命が、オーストラリアに戦後を埋葬した程度では抜け出せないものであることを、この旅行記の中で書いている。
 そのあと中井英夫は、戦後日本を刻印した「黒鳥館主人」から、薔薇に彩られた戦後の流刑地「流薔園」の造営主となり、黄金の輝きを秘めながらも月明かりすら届かない暗黒領域である「月蝕領の領主」として生きることになった。それは三島由紀夫が戦後日本的な問題を自決によってしか処理出来なかったこととは正反対に、中井英夫はその問題を「徹底的に虚構の中で引きこもること」によって処理しようとしていた。つまり戦後日本的な問題を「中井英夫自身が虚構化すること」によって引き受けたのだ。そしてその月蝕領は、中井英夫の実人生の終焉と共に崩壊し、もともとは異なる惑星から来た宇宙人であった中井英夫は、その時に戦後日本という反世界の流刑地から解放されて、真の故郷=現実への帰還を許されることになる。
 社会学者の見田宗介は戦後日本を三つの段階に分けた。まずはじめに様々な意味合いで理想を信じることが出来た1945年から1960年までに至る「理想の時代」と、経済成長後の終末的な幸福感と戦後日本的な理想の時代に対する違和感が生じた60年代の「夢の時代」、そしてオイルショックによって高度経済成長の終焉が告げられる一方で、経済成長後の消費社会に突入した70年代以降の「虚構の時代」である。
 戦後初期から中井英夫が抱えていた問題設定というのは「虚構の時代」が抱えていた閉塞感を先取りしていたものであると言えるだろう。
 この頃に書かれた村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、情報によって社会を動かし、その秩序を守る「システム」と、その秩序を脅かす「ファクトリー」との攻防を描いた「ハードボイルド・ワンダーランド」と、すべての苦悩という否定性を辺境の外部に住む一角獣に引き受けさせることで維持されている幸福な世界を描いた「世界の終り」という二つの物語が同時進行して描かれる。この作品は政治的な闘争がまだ存在していた「理想の時代」と、それ以降の消費社会に埋没するしかない「虚構の時代」の問題を描いた作品であり、村上春樹はこの作品の最後で、主人公がハードボイルド・ワンダーランドという現実に戻る可能性を拒んで、世界の終りという虚構に残留することを描いている。村上春樹はこの作品で中井英夫と同じような意味合いで「虚構として生きることの倫理」を描いていると言えるが、しかし中井英夫が言うような虚構というのは「あらかじめ自らが外部を引き受ける」という意味合いでの虚構であり、その点で村上春樹が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で描いた虚構の倫理とは異なるものであると言えるだろう。
 思想家の柄谷行人もまたそれと同時期に『内省と遡行』という自閉的な問題を扱った著作を書いており、柄谷はフッサールが言うような現象学的還元という自己完結的な内省的世界観を、あえて人間の認識を幽閉する自己言及的な超越論的自我に留まり、その内省を徹底することによって、独我論的なシステムを生み出す超越論的な自我を解体し外部に出るという作業を、フッサール的な還元に求めた。つまりこれは中井英夫があえて虚構に留まり続けることによって、最終的に月蝕領の崩壊を導出したように、極限の内省を徹底することによって、内部を外部に変換する思想であるのだ。
 あえて引きこもるということで開ける外部があるということ──90年代以降、メディアやネットなどで否定的に扱われつつも擁護を受けていた引きこもりという概念が、社会的な意味合いでの死を意味するものであるのならば、それはボードリヤールが言うような社会的システムに拘束されたシミュラークルの世界からの脱出をテロリズムを介さずに行うことで、現代社会が排除した死者への想像力を──引きこもりという中間項を設けることで取り戻すことが出来るのかもしれない。
 中井英夫が月蝕領の領主として自らを死者としたように、引きこもりという外部によって、月蝕領の残光が閉塞した社会を照らすのだ。




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Opinions

  1. Post comment

    凄すぎてびっくりします。
    難しいのか無知なのか、わからない言葉も多いですが、意味はなんとなくわかりました。
    これが引きこもり論にもなっているのが凄いです。語彙が無い…
    中井英夫読んでみたいです。

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    1. Post comment

      ヒカモリさん、コメントありがとうございます
      中井英夫は『虚無への供物』が有名ですが、初期に書かれた『黒鳥譚』が一番中井英夫らしい作品だと思います。中井英夫は日記を読む限りだと社交的な人だったと思いますが、一方で現実世界で生きることに苦悩していた人でした。この雑文はその中井英夫の苦しさと自分を重ねて書いたものです。一読ありがとうございました。

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    1. Post comment

      NYANさん、コメントありがとうございます。
      コロナの影響で全世界的に家にいる時間が長くなったこの時期には、中井英夫のようにあえてフィクションに耽溺することで得られる生きることの持続性が必要なのだと思います。言うまでもなく戦時中の日本は自由な創作表現が禁じられていました。中井英夫はそのことから「自由な戦後」を体験出来なかった様々な戦死者のためにも戦後日本で「美しい小説」を書くと誓ったそうです。それもまた一つの死者に対する弔い方なのだと思います。中井英夫が残した虚構の可能性はこれからも続いていくと思います。一読ありがとうございました。

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  2. Post comment

    随分昔に流薔園を何編か読んだ記憶が有ります。”太陽”の連載だったような気もしておりますが、定かでは有りません。それ以来の邂逅です。御作、魂を揺さぶられる思いがいたしました。不勉強ゆえ、内容の検証はできておりませんが、これだけの構成力、筆力、決して、無駄にはされませんように・・・。中井英夫、澁澤龍彦より、横溝正史が圧倒的に受けるのが世の習い、そこは選ばれしものの悲哀と受け止めて、強く有ってほしいと願っております。期待して已みません。

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  3. Post comment

    KUROSUISENさん、コメントありがとうございます。
    中井英夫は私小説嫌いでしたが、自分の人生が書かれた日記すらも一つの劇のようにしてしまうという辺りが徹底していた人だったと思います。世界的にも様々な分断が続いているのが今日の現状ですが、中井英夫はそういった「世の中から疎外されている」という分断の向こう側で生きていた人だったと思います。あえて分断の向こう側を引き受けるという中井英夫のような精神が、向こう側に追いやられた人々の道標になるのだと思います。一読ありがとうございました。

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