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応募作品8

黄色と私の話

ペンネーム:小森すずめ

 ひきこもって7年目になる私には、ひきこもり3年目までの記憶がほとんどない。はっきりと思い出せるのは金縛りの感覚ぐらいだ。後頭部から魂を引きずり出されるような不快感、痙攣する手足、悪夢のような幻聴と幻覚……。あの頃は毎日異常に眠くて、一日中寝ていたせいか、よく強烈な金縛りに合っていた。当然、世の中で起きたこともなにひとつ覚えていない。

 そんな日々は、家にセキセイインコの雛がやって来たことで終わった。

母方の親戚が農業の傍らで小鳥の繁殖もやっているのだが、その年はたまたま雛が生まれすぎてしまい、余った雛を親戚中に配ったのだ。私が子供の頃にも、そのようにしてうちに来た雛が何羽かいたので、鳥の世話には少しばかり慣れている。
 今回うちに来たのは、生後2週間の、まだ灰色の産毛に包まれている雛だった。そっと手に乗せると、足の裏がじんわりとあたたかい。くちばしの前に指を近づけたら、早く餌をくれとばかりに大口を開けてピーピー鳴き始めたので、すぐに餌をやることにした。
 湯でふやかした粟に栄養剤を混ぜた挿し餌をスプーンで与えると、雛は吸い込むように食べ、満腹になるとすぐに寝た。
 鳥の雛は、2時間置きに挿し餌を与えねばならない。その上、挿し餌はあたたかく新鮮なものではないといけないので、雑菌がわかないように毎回作り直して容器も丁寧に洗う必要がある。もしも挿し餌をサボったら、雛は飢えか感染症で死ぬか、発育不良の弱い個体になって早死にしてしまう。
 その日から1ヶ月間、朝7時に雛を起こし、夕方5時まで2時間置きに挿し餌をやる生活が始まった。これはなかなか面倒だった。しかし私が餌やりを怠れば、雛は健康に育たないか死ぬのでサボるわけにはいかない。そんな日々を送っていると、日中の異常な眠気は少しずつ消え、金縛りも起きなくなった。

 やがて雛の産毛は飛ぶための羽に生え替わり、ふっくらとした可愛らしい幼鳥になった。全身は淡い黄色で、翼の下の、尾羽の付け根の部分だけが鮮やかな緑色をしており、全体的にどことなく上品な感じがする。とてもきれいな羽の色をしているので、私はその子に<黄色>という名を与えた。
 黄色は私によく懐いた。私の後を走って追いかけてくるし、指に乗せてやると、あたたかい4本のあしゆびで私の指をぎゅっと握り、小首を傾げて嬉しそうにこちらを見上げてくる。遊び疲れると手のひらに潜り込んできて、羽を膨らませてぷーぷー眠る。驚くことに、人間の言葉を生後わずか2ヶ月半で喋るようになった。今までも数羽のセキセイインコを育てたことがあるが、こんなに早く喋るようになった子はいなかった。

 黄色が一番最初に喋った人間の言葉は「おしゃべり」だった。毎日「そろそろおしゃべりできるかな?」「おしゃべりする?」などと話しかけていたのを覚えたらしい。最初は「おしゃ、おしゃ……」とブツブツ言い始めたと思ったら、ある日突然「おしゃべり」とハッキリ言うようになり、仕舞いには私の指にちょんと乗って「おしゃべりする?」と聞いてくるようになった。
 私は一人っ子で、親との関係が上手くいっておらず、家の中で話す相手がいない。人目が恐ろしくて、近所を散歩さえできないので、外の人と話す機会もない。それがある日、「おしゃべりする?」と聞いてくる相手ができた。私が「いいよ」と答えると会話が成立したような感じなる。なんだか不思議だった。
 私は黄色にたくさん話しかけた。「おはよう」「ご飯食べた?」「美味しかった?」「おしゃべり上手だね」「かわいいね」「今日は寒いね」「足がポカポカだね」「お利口さんだね」「そろそろ寝る?」「おやすみ」。
 セキセイインコの脳味噌は小指の爪ほどの大きさしか無いだろうに、黄色は他愛のない会話から、早口言葉に咳払い、桃太郎の昔話までまるっと覚えた。

 ある頃から、もう寝る時間だというのに、黄色は私と遊ぶのが楽しくてなかなかゲージに帰らなくなった。そこで私は、黄色を宥めすかすために、彼を指の上に乗せて、
「今日も楽しかったね。良い一日だったね。明日はもっと楽しくなるね」
 と、言い聞かせるように話しかけた。すると、黄色は「ふぅん、明日も遊べるのか」と納得したような顔をして、大人しくゲージの中へ戻るのだ。
 やがて黄色はその通りに喋るにようになった。セキセイインコは頭を後ろにまわし、嘴を背中に埋めた姿勢で眠る。黄色はその就寝ポーズを取ると、
「今日も楽しかったね。良い一日だったね。明日はもっと楽しくなるね」
と、寝言のようにぶつぶつ喋る。
 今度はそれを聞いた私が「ふぅん」と思うようになった。ふぅん、今日は良い一日だったのかもしれない、と。
 ひきこもっていると、毎日が昨日の繰り返しで、とてもじゃないが「今日も楽しかった、良い一日だった」なんて思えない。ひきこもり始めてからは、まるで手足を切られた状態でぬるま湯に強制的に漬けられているような、自分ではどうすることのできない不快感しかない。ましてや「明日はもっと楽しくなる」なんて、到底思えるわけがない。
 でも、遊び疲れた黄色が、止まり木の上で満足そうに「今日も楽しかったね。良い一日だったね。明日はもっと楽しくなるね」とぶつぶつ言いながらまどろんでいるのを見ると、今日は良い一日だったのかもしれないと……そんなような気になるのだ。

 黄色と私は順調に信頼関係を築きあげていた。鳥は一生の間に一羽だけパートナーを持つ。黄色も若鳥になると、私をパートナーに選んだらしく、食べた餌を戻して相手に与える「吐き戻し」という愛情表現をするようになった。黄色には悪いけど、こちらとしてはゲロを吹きかけられてちょっと迷惑だ。しかしこれが鳥の世界では当たり前かつ最高の愛情表現なので、責めるわけにはいかない。
 鳥が人間をパートナーに選ぶのは珍しいことではない。中には同居している犬・猫など他の生き物や、プラスチックの玩具などモノをパートナーに選ぶ鳥もいるらしい。
 私たち人間は、自分と異なる外見や共感できない思想を力ずくで排除してきた差別の歴史を持つ。だからだろうか、何もかもが自分と異なる生き物や、時にはモノにまで、あらゆる「違い」をひょいと乗り越えて心を寄せられる鳥の愛情深さには驚かされる。
 ヒトの私は、黄色が私を想うように黄色を想うことはできないが、黄色が大好きだ。同種族の人間との関係を上手く築けず、人間と交流することに半ば諦めを感じている私からしたら、この世で形が違う者同士で心を通わせられるのは、奇跡のようだと感じる。

 そんな私たちの関係が一度壊れたことがあった。
 黄色が2歳半ばの頃。ひきこもり生活を脱したいと思い、勇気を出して「市のひきこもり相談窓口に一緒に行ってほしい」と母に頼んだことがある。すると、母は蔑むような調子で「なんで私がそんなところに行って、しょうもない人間らと関わらないといけないわけ? 自分ひとりで行け!」と返した。
 私は悲しくなった。部屋に戻って黄色のゲージの横で大泣きした。喉から悲しみと怨念がないまぜになった恐ろしい声が出た。その声がよほど恐ろしかったのだろう。私が泣きやんだ時、黄色は体を細くして怯えた目で私を見ていた。
 その日から1ヶ月間、黄色は人間の言葉を喋らず、手を差し入れてもゲージの外にも出ず、ご飯もあまり食べなくなった。鳥は、その愛情深さゆえに、パートナーの行動に感情を左右されやすい。親に心を傷つけられた私は、黄色の心を傷つけてしまった。心理的暴力の連鎖だ。その後、1ヶ月かけて黄色の信頼を取り戻すことはできたが、私が泣くと黄色が怯えるので、私は二度と家の中で泣けなくなった。

 黄色は母を嫌っており、母も自分に懐かない黄色が嫌いだ。
 母は、気に入らないことがあると、「これ以上私に反抗したら、おまえの憎たらしい鳥を外に放してやるからな」と言う。もしも外に放たれたら、人に飼われてきた小鳥が生き延びられるわけがないだろう。このように黄色を人質に取られたら、どんな理不尽な仕打ちを受けても母に跪かざるを得ない。
 黄色は私の慰めであると同時に、私の弱みでもある。黄色は私と同じく親に飼われている立場であり、もしも親が飯を与えなければ、私たちは飢えて死ぬ。黄色を連れて家から出られたら良いが、私は社会という戦場で手足が吹き飛んでから退陣した負傷兵のようなもので、そのような不具の兵士が、もう一度戦地へ戻って生き抜くことは難しい。

 時々、この世のどこにも居たくないと感じる。
 居場所は作ればきっとある。でもどこにも居たくない。

 ニュースサイトのコメント欄やSNSなどで、世の中の人のひきこもりへの心ない言葉を見た瞬間に、心臓がすっと冷える。私はいつか、このような<普通の>人たちだらけの世の中へ戻らねばならない。そう思うと絶望で打ちひしがれしまう。でもそんな時に、黄色がじんわりとあたたかい4本のあしゆびで私の指を握ってくれると、心痛が少し和らいで、自分や親や見ず知らずの他人を殺さずにいられる。

 もはや黄色と私は一蓮托生でひきこもっているようなものだ。家の中ひきこもり仲間がいると思うと、独りでひきこもっているよりは心強い。けれども黄色は鳥なので、私の救いや助けにはなれない。私は人間だから黄色を友や恋人にはできない。黄色は苦痛を和らげる麻酔であれど、決して長い人の生を生き抜くためのよすがではないのだ。

 今年で黄色の寿命は折り返し地点を過ぎた。私もいつまで生きられるかわからない。あと何年黄色と一緒にいられるのだろうか。そう考えると寂しくなる。7年間で家庭内の人間関係は悪くなった。今年から父が鬱で休職しており、その上、古くなった木造家屋の床が破れた。家計も家も傾き、ひきこもるほどに人生が苦しくなっていく。それでもこの世のどこにも居たくないから、私は今日も黄色とひきこもる。




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Opinions

  1. Post comment

    厳しい現実に鬱屈とした状況が続く中でありながら、
    その中でも微かな希望や優しさを感じさせるような文章の雰囲気にとても感心しました。

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  2. Post comment

    鳥の描写が目に浮かぶようなに感じました。
    優しいし、悲しいし、切ないし。後ろ向きなのに前向きに感じたり。
    複雑な状況と気持ちが絶妙に表現されていてすごいと思いました。

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    1. Post comment

      ↑のコメントを修正しようとしたのに間違って投稿してしまいました。投稿後は修正できないようですので、再度投稿します。

      「どこにも居たくない。」この叫びのことをずっと考えて続けています。

      Permalink
  3. Post comment

    「今日も楽しかったね。良い一日だったね。明日はもっと楽しくなるね」
     と黄色に話してるシーンが一番好きです。
     自分がそう思えてなくても黄色にそう語りかける。泣きたくても、黄色が怖がるから泣かない。
     優しさと繊細さと芯の強さを感じました。
     そして、「黄色」って名前が最高に可愛い!

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