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文学大賞 本編部門13 眠れぬ日々 作者 みなつき 

引きこもり文学大賞 本編部門13

作者:みなつき

  その茶色のドアを開けると、机の向こうの彼女は眼鏡の奥で笑む。黙っていると、「最近はどうですか?」と問いかけてくる。
 波には分からない。何故自分がここにいるのか。誰と話しているのか。心を閉ざし、聞きたくない言葉はシャットアウトする。
 ここにいると、寄せては返す波のようにザザザーと頭の中で音がする。何故、その様な音がするのかは分からない。分析等する必要もない。音がするから音がするのだ。
 だから、彼女に『波』と名付けた。
 嫌な事は己以外の誰かに対応してもらう。幼き頃、その考えに行きついてから、少しは人生を生きやすくなった。
 だが、それはそんな気がするだけで、すぐに次の苦悩はやってくる。
「眠れていますか?」と聞かれる。
(眠る? 眠るって何だっけ?)
 もう何年も何十年も眠っていないような、それでいてずっと眠っているような、死んでいるような感覚に襲われている。
「寝つきはあまり、良くないようです。夜中に何度となく目を覚ましています」と、誰かが話しているのを耳にして、波は不安になる。(何故、私のことを知ったように話すの?)
「そうですか。お薬を変えてみますね」と、勝手に話が進む。
(止めて!)と、波は叫ぶ。
(私を眠らそうとしないで)と、声にならない悲鳴が聞こえる。
 だが、それは、すぐにザザザーという波音にかき消されて行く。
 それで良いのだと、波は思う。それならば、金切り声を上げてここから逃げ出し、トラブルを起こさずにすむ。周りに迷惑をかけることもない。
(ここには……自分の中に土足で踏み込んで来る人がいる。優しい瞳をしているが信じてはいけない。注意しろ)と、何処かで誰かが囁いている。
(もし、真実を誰かが知ることとなったら、自分は崩壊するだろう。今まで必死になって築いてきた『これまで』は亡失し、『これから』も枯渇する)と、それは呟く。
「だいぶ、お疲れのようですね」と、白衣の彼女は言う。
「はい、最近は夜中に、よくうなされています。否……うなされると言うより、独り言を言っていると言う方が、正しいのかもしれません」と、その人は返す。
 波は心を閉ざした。
 彼女の瞳の奥に、真冬の日本海が広がった。

***
 処方箋をもらい、病院の斜向かいの薬局につくと、その人は「お茶、飲むか?」と聞いて来る。
「ありがとう」とそれを受け取ると、ここで漸く、彼女はその人が自分の夫であることを認識した。そして、波は『愛菜』へと変わる。
 彼は優しい人だと愛菜は思う。彼女の睡眠異常に気付き、心療内科を探してくれた。
 彼女が眠れなくなったのは、もっと遠い昔のことであったが、誰も、自分自身でさえもそのことに気付いていなかったというのに。
 夫との出会いは職場だった。日々の多忙な仕事に追われ、職場で貧血を起こし、倒れた彼女を助けてくれたのが、彼だった。
 彼を愛するようになり、『愛菜』が生まれた。彼女は献身的でありながらも、甘え上手な女性だった。当然だ。愛菜は彼だけを愛するための、人格なのだから。
 夫と出会った頃、彼には結婚を約束した方がいた。随分と我儘で、身勝手なお嬢さんだと噂に聞いた。
 否、それは、ただの願望だったのかも知れぬ。
 彼を困らせ、振り回す女性と定義した方が、愛菜にとって都合が良かったからだ。
(私なら、彼をもっと愛せる。幸せにできる。だから、奪う権利がある)と、思いたかった。
 その為には、社会人である『加奈子』では都合が悪かった。彼女は仕事をテキパキとこなし、人間関係を円滑にするためだけに生まれたのだから、恋愛には適していなかった。
 加奈子は目上にも堂々と自分の意見をぶつけ、相手の話を聞き、折り合い点を見出す。
 与えられた仕事には自分なりの工夫をし、出来るだけ時短で提出できるように心がける。
 いつも笑顔を絶やさず、部下には優しい。精神的に安定しているかのように見える彼女は、出世も早かった。
 入社三年目には、プロジェクトリーダーを任され、七年目にはマネージャーへと昇格した。
 それなりに……『加奈子』でいることは、やりがいがあった。輝いているように見えた。だが、このイミテーションの累日は、己のコアの部分を少しずつ蝕んでいった。
 皮肉なものだ。コアを守るために『加奈子』が生まれたというのに。
 加奈子の痛みは徐々に皮膚から、筋肉、内臓へと入り込み、神経を伝い、脳へと達して、彼女はパニックとなり貧血を起こした。
「最近、忙しかったからね」と、職場の人たちはエールを送ってくれた。
(そうじゃない!)と叫喚する何かがいたが、加奈子はそれを抑え込んだ。
「そうですね。プロジェクトも一段落しましたし、少し休んで、また楽しく皆で働きましょう」と明るく返した。
 その言葉は、矢のように己の頭に突き刺さり、痛苦を残して突き抜けて行った。
 それを見抜いたかのように、「無理し過ぎじゃないですか?」と、彼はコーヒーをベンディングマシンで入れてくれた。
「ありがとう」と加奈子受け取り、「倒れた時、支えてくれたのよね。貴方がいなければ、私、頭を打っていたかもしれないのよね」と、ミステリアスな笑みを浮かべた。
何度も練習した笑みだ。人と良い関係を保つ為にだけに作られた笑顔。
 曖昧な笑顔は、人を安心させることも、不安にさせることもできる。ほんの少し、口角の位置と瞳の大きさを変えればいい。
 繕って、繕って、耐えきれずに倒れたというのに、彼女はまだ、『加奈子』を演じようとしていた。
「たまたま、傍にいたものですから」と、彼は顔を赤くする。
 己のコアの中で、何かが弾けた。
 『愛菜』が誕生した瞬間だった。支えてくれたお礼にと、気付けば自然な形でご飯に誘っていた。
 彼が躊躇しなかったのは加奈子が、部下に対して面倒見が良く、男女問わず、相談に乗ることを知っていたからだろう。
 しかし、今回は相手が『加奈子』ではなく『愛菜』だということを、彼は知る由もない。
 彼は『加奈子』と『愛菜』のギャップに魅せられた。
 会社で出来ると評価されている女性が、自分だけに甘え、尽くしてくれる。彼が彼女に惚れこむのに時間はかからなかった。
 愛菜の我儘は距離感を掴んでいて、「仕方ないなあ」と、男性の本能を刺激した。
 愛菜でいるうちは、何故か安心した。副交感神経が優位になり、彼の腕の中で眠ることができた。
 だが、離れると不安になり、『唯』というメンヘラ娘が誕生した。
(もっと私と一緒にいて。彼女と別れて。それが出来ないなら、一緒に死んで)と泣き叫ぶ己をコアは、『唯』に押し付けた。
 唯は、わめき立て暴れだす。
 彼がいない夜……。多分、婚約者のところにいるだろう夜には、カッターナイフを握り締め、手首の青い血管を見詰めた。
 大事に至らなかったのは、コアが生に執着していたからにし過ぎない。
 こんなに生きて行くのが辛くても、生へのエネルギーが、死のそれに勝っていたことは驚きであった。
 結局、彼は愛菜を選んだ。
 婚約者と別れ、自分の元にやってきた彼を(もう、絶対に離さない)と、愛菜が、唯が、加奈子が思い切り抱きしめた。

***
 幸せは長くは続かなかった。
 結婚して、一年が経った頃、愛菜は身体に不調を感じた。吐き気と眩暈に悩まされ、まさかと思って病院へ行くと、医師は、「おめでとうございます」と伝えた。
(おめでとう??)
 彼女には意味が分からなかった。何故、妊娠がおめでたいのだ?
 愛菜は二人だけの幸せな生活がグラグラと壊れるのを感じた。子供なんていらなかった。
 愛された思い出のない己が、子供なぞ育てられるわけもない。愛菜は夫を愛することで満たされていた。
 エコーに映る、己が中に芽生えたモノは、幸せを壊すエイリアンにしか見えなかった。
 だが、夫はこの命を喜んだ。彼の愉悦が分かると、唯がエイリアンに嫉妬をし始める。
(赤ちゃんなんか。死んじゃえばいいのに)唯は残酷な子供のような人格だった。
 毎日のように、子宮の中の細胞は分裂し、魚から胎児へと変わっていく。
 これは、まるで己ではないか。と、コアは恐れた。生きるために、自身を分裂させて多様な人格を作ってきた。
(気持ち悪い!)と、コアは胎児を否定する。同族嫌悪に近い感情が、コアを支配する。
 せっかく今まで己を隠し、人にさらすことなく、なんとか生きて来たのに……。
 胎児という化け物が、己の皮を剥いで、コアをむき出しにしてゆくような感覚を覚えた。
 母と同じ血、残忍で気まぐれで、あれほど毛嫌いした女の血が、自分の中で開花してしまう。と、コアは思った。
 どす黒く、淀んだ血。彼女を馬鹿にし、否定し、蔑み、恥ずかしい者として扱った母。
 否、あれは母ではない。
 ――あれは鬼……
 母は優しく、清らかだった。いつも自分を守ってくれたではないか。だからあれは、鬼なのだ。と思いたかった。
 その追懐は歓喜と共に『鬼』を生んだ。
 夫が出張した夜、鬼は湯船に水を張り、氷を大量に入れた。そこに身体を浸すと、解放された気分になった。凍てつく痛みは快感に変わる。こんなもの、今まで味わってきた痛みに比べればたいしたことはない。と鬼は……否、コアは思った。
 血が子宮から流れ出し、血まみれになったバスタブの中でコアはエクスタシーを感じた。
 そして、お湯の温度を上げてから、救急車を呼んだ。あたかも……湯船の中で悲劇が起こったかのように。
 薄れゆく意識の中で、愛菜は痛みに耐えていた。
 唯のキャッキャッとした笑い声が聞こえる。
 加奈子は「これで良かったの?」と冷静だ。
 コアはまた、硬い殻の中に引き籠ったまま出て来ない。
 もう、コアに意識はないのだ。
 細胞分裂を繰り返し、大量な人格を生んだせいで、本当の己は残っていないのだろう。

***
 夫は知らせを受け、病院へ駆けつける。
 愛菜が泣きながら、「ごめんなさい」と言うと、黙って抱きしめてくれた。何故か、今までのような幸せは感じなかった。

 そして、『波』が生まれた。
 止せては返す波の音……。
 遠い昔、母の胎内で聞いた音……。 了

 




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