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文学大賞 本編部門20 ディルーテッド・ライフ 作者 イトウキソク

引きこもり文学大賞 本編部門20

作者:イトウキソク

  僕はたびたび引きこもっていたころの影に引っ張られてきた。物事がうまくいきそうになるとあの頃の僕がそっと現れては、そこじゃない、そこじゃない……と糸をたぐる。それは声ではなく、ただ整然したものを壊したい欲求。美しいものを汚したい衝動。成功を望まない無意識、諦め。そうしたものとして現れる。お前の住むべき場所はそこじゃない。仮面を剥がしたらあの頃と同じ出来損ないなんだ……と。
 
 
 留学先のシアトルから夏休みに帰国することが僕らのグループの常だった。そしてすぐに「音楽祭」の準備に入る。
 不登校生向けのフリースクールを母体とするグループでは、後輩のためという文句がよく使われた。創設者のO先生も「後輩のためのあこがれであってくれ」といって、この音楽祭が一つの目玉だった。
 そのため帰国するとすぐにフリースクールのある神戸を拠点として日々音楽練習をしていた。
 朝から晩まで続く練習は規律を重んじるグループの空気によくマッチしていた。
 とても抜け出すことはできなかった。
 その中で通院は一つの強力な免罪符で、それがあれば自由に練習から解放されるチケットだった。
 僕は抜け出すためによく整骨院に行くようになり、週に何度も早退していた。アメリカで腰を悪くしていたし、重要な曲を任されているわけでもないのでだれも不満をいうことはなかった。そこでヤエに出会った。

 ヤエは整骨院の受付をしていた。
 週に何度も行くので世間話をするようになった頃、僕は話しかけた。
「この辺はなにかおすすめないですか?」
「この辺? 三ノ宮とかに行っちゃうからこの辺あんまり知らないんですよね」
「じゃあ一緒に駅前の店とか行きませんか?」
「え……いいですよ」
 彼女にしてみれば勇気を振り絞って誘うのは滑稽に映ったかもしれない。でもその時の僕はただ背徳感にしびれていた。
 僕たちは駅に隣接したイタリアンレストランで、落ち合った。一階は花屋になっていた。
 だれかに見られないかと思いながら、見られたら見られたでいいと開き直った。
 フリースクールは僕が自分で探したクモの糸だったが、僕が本当に守りたかったのは僕自身だった。
「お酒飲みます?」
「そうですね、じゃあ一杯」
 ワインを飲みながら、飲酒も恋愛も禁止のグループにおいて小さな反抗をたのしんでいた。
「わたしね、双子なんですよ」
「へ、へえ、そうなんですね」
「あははッ、嘘ですよ」
 もてあそばれるのも赤面するのもたのしんだ。そしてそれはすごく健全なことだと思った。
「わたしね、イトウさんと会うことわかってたんですよ」
 ヤエはなめらかにいった。
「え?」
 僕はなにもわかっていないのに頓狂な声とヘラついた表情になった。
 構わずヤエはつづけた。
「あのね、大阪によく当たる占い師がいるの。友だちの紹介で行ったんだけど。その人がね、今月若い男の人に声をかけられるって。だからイトウさんに声をかけられた時、ああこの人なんだって」
 僕はへえとかおおとかいいながら二の句がなかった。
「ごめんね、いやな気持ちにさせちゃったら」
「いや、ぜんぜん。ほんと、今日は食事できてよかったです。その占い師もよかったら紹介してくださいよ」
 ヤエの髪は室内では茶色に見えたが、外だと金髪に見える。
 さらさらと風にそよいでいた。
 僕はだれかにいいたいような経験をした気でいた。
 でも、だれにもいえないことがもどかしく、また誇らしくてあの頃の自分消えていく気がしていた。

 僕はなんとか再渡米の日を迎えることができた。ヤエに対する気持ちも薄くぼんやりとしたものに変わっていた。
 それでもシアトルに着いてから写真を送ったり、メッセージを送ったりしていた。
 そのくらいの距離感が自分に合っているとうそぶく時もあれば、もっと近くで深く愛されたいと思うこともあった。
 僕らは僕が帰国するたびに会って、食事をしていた。
 ある時、卒業後に日本の大学院に行こうと思っていると話していたが、前後関係なく彼女は、
「ねえ、わたしたちもタイミングが合えば付き合うこともあったのかな」
 といった。悲観的な意味合いはなく、さぐりでもない。彼女らしい素直なことばだった。
 僕は「そういってもらえてうれしいな」といいながら酒を飲んだ。彼女にとって僕はいつまでも子供なのだと知った。

〈実はね、イトウさんにいってないことがあるの〉
 ヤエとの連絡は思い立った時につづいていた。
 僕はなにかまだ区切りがつかず、日本の大学院に進学していた。
〈なにがー?〉
〈わたしね、結婚してて今度娘が大学に入って落ちついたから、整骨院も辞めて今絵を習ったりいろいろしてるの〉
 僕は特に驚かなかった。それっぽい話は会った時にしていた気がしたし、詮索するのは今さら野暮なことのように思えていた。第一、ことばだけの関係である僕らにとって、眼の前にいる互い以外になんの根拠もない。どちらかが嘘をついても、――双子の話のように――否定することはできない。ただ受けとめることしかできないし、大なり小なり僕も彼女にそれを強いているだろう。
〈そうなんだ、いってくれてありがとう〉
〈こんど友だちだけ集めて個展をやろうと思うの。奈良のすごい田舎なんだけど。一年後でね、自分を鼓舞する気持ちも込めてもう予約しちゃったの。8月19日。すごい暑い時期だし遠いけど、イトウさんにも来てほしいな、って〉
 友情とは無償性をもとにした唯一のあり方だと学んだのは日本の大学院に入ってからだった。親子関係よりももっと美しいもの。
 僕は〈もちろん行くよ〉と答えた。

 僕は奈良の巻向駅にいた。
 午前からパーティーをしているようだったが、午後から行くことにした。
 約束の13時に着く電車はなく、15分前には駅に着かないとその時間には着けなかった。
 彼女のいった通りの暑さで、ポータブル扇風機を顔に当ててもぬるい風はとめどない汗をとめられなかった。
 ケータイのメッセージに眼をやる。
〈土曜日 13:00 野球の高橋マー君を崩したような男性がお迎えにいく予定です。五分ほどで着くので気楽にね😊〉
 13時10分になった。
 なんども繰り返しメッセージを見た。僕は車が来るたび、駅舎から出て行き去っていくのを見送った。
 ――そうか。僕なんかがうまくいくはずないんだ。
 13時15分になった。
 日差しはなんの陰りも見せずに、すべてのものを焼いた。僕はサバンナのチーターになった夢想をした。暑くて息も荒く、木陰に休んでは生きるために獲物を探す獣。荒野を一匹で走りまわる彼らはただ遺伝子にインプットされたものだけを頼りに生きる。
 13時20分になった。
 もうとっくにメッセージは送っているし、コールもした。
 今までリアルだったものが崩れる。なにを着ようかと悩みバーバリーの白いポロシャツで、手には伊勢丹で買ったお酒の紙袋をもっている。そんな自分のすべてが否定されているような揺るがしに僕はおびえていた。
 ――そうだ。みじめな気持ちで帰路につくのもかまわない。もともとそんなもんなんだから……
 次、帰りの電車が来たら帰ろう。
 そう思った時、車から頭のはげた男が向かって来て、「すみません、ばたばたして遅れてしまって……」といいながら近づいて来た。ぜんぜんマー君に似ていなかった。

 車内で、「あのう、失礼ですがヤエさんのご主人ですか?」と訊くと
「はい、ええ、すみませんね暑い中待たせちゃって」と男はいった。
「あの妻とはどんな関係なんですか?」
 僕は考えたこともない質問をされ、彼女が僕をどういっているのかもわからず苦笑した。そして
「なんていうか、ちょっと昔からの知り合いなんです」といった。

 車は坂をのぼり山の中腹にある古民家カフェまでたどり着いた。
 もし徒歩だったら死んでたな、と思いながらヤエのご主人にお礼をいって入口に行く。若い女が出迎えてくれた。僕は横目でヤエの位置を確認しながら、受付をしているその女に手土産を渡した。彼女はすぐにポストイットで名前を書いて他の手土産の山にもぐりこませた。
「どちらから来られたんですか?」
 ヤエが他の来客に対応しているからか彼女が間をもたせる。
「東京からです」
 ええ! と大きくリアクションをしてワンピースがふわりと揺れた。
 ハンカチで汗をずっと抑えている僕とは対照的に涼しげだった。
「あのう、失礼ですがヤエさんの……」
「あ、娘です。今日は手伝いで駆り出されて。母とはどういう関係なんですか?」
「いや……お母さん神戸の整骨院で働いてたことあるでしょう? あの時の客なんですよ」
「ええッ! わたしが小学生の時だ。わたしと会ったことないですよね?」
「ないですないです。けっこうヤエさんには騙されてまして」
「ああ、ぶっ飛んでますからね。あの人」
「だから今日も個展嘘だったっていわれてもなんも驚かないんですけど、あってよかったです」
「ふふッ、なにか嘘いわれたんですか?」
「双子だとか」
「あははッ、それは嘘やな」
「あと、はじめて会った時、占い師に僕から声をかけられること聞いてたっていったんですよ」
 おおー、といってからさもありなんという顔をした。
「どうです? 娘さんとして本当だと思いますか?」
 彼女は少し間をおいて「本当だと思いますよ」といった。
 それから目配せをして「お母さんいわれてんでー」といいながら笑ってヤエを呼び寄せた。
 
 
 枯れた老年の惑いみたいなことをいうつもりはないけれど、ノスタルジーにひたるのも悪くはないと思える年になってきた。
 あの頃の僕には今よりもずっと生と死が近くにあった。年をとって生も死もすっかり遠のいてしまった。
 死ぬほどあこがれて死ぬほど憎んだ生ぬるい大人。自分を踏みつけているシステム。沸きあがる焦燥。
 ヤエにもらった油絵のある部屋であくびをして、そっと眼をとじる。
 あの日の僕にいう。
「こんなことに思いわずらう大人になっちゃったよ」
 でも本当はあの頃と同じように、希釈した生の中でもなにかがうごめいている気がした。
 あの頃の僕はわかってくれるだろうか。――いや、あなたなら。

 




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