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本編部門 19 境界線のアオムシ

境界線のアオムシ

ペンネーム:ふき

 家に小さな庭がある。母は植物が好きで、山や野原で拾った種子を見境なく植えるような人だから、四方八方に茶色の鉢が並んでいる。地植えされた木々や、おのずから生じた雑草の類も群生し、人一人分の小道を残して、小さな緑の世界が広がっている。

 ひきこもりの私は庭に出ることもままならない。庭に出ている姿を、通行人や向かいのマンションからのぞかれやしないか、という不安がそうさせていた。私と庭の間には、ガラス戸の一枚の仕切りによって、境界線が存在している。

 それでも、庭をガラス戸からぼんやりと眺めることがある。日に数回、台所を訪れる際に、ちらりとガラス戸をのぞきこむ。必ずしも何かを見ようとしているわけではない。けれど、ほんの少しだけ、何かを探している。芽、葉、花、実、なんでもいい。移り変わりのようなものがないかな、とぼんやり目を配らせる。何かを見つけたとき、わずかに心が動くのを感じる。

 時折、生き物を見つけることもある。去年の春は、アゲハチョウの羽化に立ち会えた。私がのぞくガラス戸のドアの枠の隙間に、アオムシが貼りつき、サナギとなり、チョウとなった。

 初めにアオムシを発見したのは、物置棚の上だった。棚はガラス戸と隣接して外にあり、ガラス戸をのぞくと目の前にある。だから、いきなり視界に緑の物体が現れて驚いた。刹那にはそれがアオムシだとわからなかった。

 アオムシは棚に体の半分を預けて、ぷらぷらとぶら下がっていた。うねうねと動くグロテスクな姿と、虚ろな目玉のような模様が、私を不安にさせてくる。まるまると太った姿を見るに、サナギになる場所を探しているのだと予想がついた。

 例年、アオムシが現れるレモンの低木は、棚から離れた場所にある。どうにか壁を伝って、ここまでやってきたのだろう。この小さな生命のどこにそんな力があるのだろうか。そんな考えに意識が虚ろになっている間に、アオムシはいなくなっていた。地面に落ちたのだ。

 私はガラス戸から外を見渡して、誰からの視線も感じないのを確認すると、ガラス戸を開いた。アオムシは、軒下のコンクリートの土間の上で、仰向けになって、もがいていた。

 棚の下の周辺にはホコリがたまっていて、アオムシにホコリが絡みついていた。アオムシは体勢を戻すと、落ちた棚の脚を登り始めた。しかし数十センチ登ったところで、また落ちた。そしてまた登ろうとして、またまた落ちた。落下を繰り返す度にホコリにまみれ、登る高さは徐々に低くなっていく。アオムシは登るための吸着力も気力も失いつつあるように思えた。

 やがて、アオムシは登ることをやめて、コンクリートの土間を這いずるようになった。コンクリートの上を這うアオムシの姿というのは、自然に似つかわしくなかった。私はアオムシを葉っぱですくって、レモンの木の周辺に返すべきか迷った。

 しかし手を貸すのは、なんだか嫌だった。自然に干渉することに抵抗を感じた。私が介入することが、自然の調和を乱すようで気が引けるのだった。ここまで壁を這ってきたアオムシの努力を無にする行為にも思えた。それに、レモンの木に戻したところで、そこで天敵に見つかるかもしれない。

 アオムシは徐々にこちらに近づき始めた。反対方向にいけば、土も木もある。自然の世界に帰したかった。このままではコンクリートの上で、弱って死んでしまうかもしれない。サンダルで進路を防いでみたが、アオムシが登ろうとするので、慌てて引き上げた。自然から遠ざかるばかりである。アオムシが仰向けになってアリにたかられている、そんな未来の姿が容易に想像できた。

 私はもう見ていられなかった。網戸を閉めて、その場から逃げ出した。部屋に戻り、自然の成り行きに任せたのだと、自分に言い聞かせた。

(でも自然とは一体なんなんだろうか)

 そんな思いがぬぐえなかった。そもそも、コンクリートを這いずるアオムシというのは、自然なのだろうか。住宅街に作られた庭は、自然と言えるのだろうか。問いかけばかりが増えていく。しかし答えは出なかった。ずっと家に閉じ籠っている私だけは、自然ではないとわかっていた。

(自然だの、何だの、境界線を引くからいけないのだ)

 アオムシが弱っているようならば、どうにか助けてみることにした。私は台所に戻った。しかし、軒下の土間にも、棚の周辺にも、アオムシは見当たらなかった。一体どこに行ったのだろうか。私は深呼吸をして、網戸を解き放ち、外に出た。

 しばらく辺りを見渡して、ようやくアオムシを見つけた。くぐってきたガラス戸のドア枠の下の方にひっつき動かなくなっている。私の膝ぐらいの低い位置だった。それがサナギになる前段階だということに気づいた。こんな場所で大丈夫なのかという不安はあったが、とにかく、アオムシがサナギになる場所を見つけたことに胸をなでおろした。

 後でもう一度見てみると、腰を折り曲げたアオムシの頭とお尻が糸でとどめられているのがわかった。糸でつながった頭がかすかに宙に浮いていた。

 その日からサナギの経過を見守ることにした。ドア枠でサナギになったものだから、ガラス戸は閉じられない。網戸だけを閉めて生活することになった。

(あんな場所で、本当に羽化するのだろうか)

 サナギを他の場所に移すことも考えたが、結局何もやらずに日が過ぎていった。サナギは、一日目にアオムシの姿から緑の塊に変身した以降は、見た目の変化はあまり感じられなかった。

 私はじっとサナギを見つめてみた。やはり外から見る限り、何も変わらないまま、動かず、生きているのかどうかもよくわからなかった。ひきこもりの私のことのようだった。

(殻の中で、ほんのかすかに鼓動しているのだろうか)

 サナギは二週間ほどで羽化した。朝に発見した時は、もう脱皮した後で、ガラス戸の枠に細い脚で捕まるアゲハチョウの姿があった。薄黄色と黒の豪華な羽を携えていたが、体の形はアオムシの面影が残っていた。縮んだ羽を伸ばし乾かし、飛び立つ準備をしている。昼を過ぎると、ゆっくりと羽を広げる動作を繰り返し、いよいよ飛び立つ気配を見せ始めた。そして、飛んだ。

 アゲハチョウは庭の低い位置を飛びながら、軒下の土間をこえたものの、その先の地面に落ちるように着地した。もしかしたら羽化に失敗したのではと一抹の不安がよぎった。私は開放済みのガラス戸から飛び出して、アゲハチョウを追いかけた。

 アゲハチョウは土の上で体を休めていた。そしてもう一度飛び立つと、ふらふらと低空飛行しながら、ガラス戸の方に戻り、軒下のコンクリートの土間に着地した。アゲハチョウの目の前に物置棚がある。嫌な予感がした。またホコリまみれにさせるのだけは避けたかった。

 私は手を差し伸べて、アゲハチョウを手の甲にとまらせて持ち上げた。

(しっかり、しっかりと。飛べ、飛んでくれ)

 アゲハチョウは、私の手の甲から離れ、風に流されながら、ふらふらと上昇し始めた。そのまま私の上をしばらく浮遊した後に、庭の塀をこえて、シラカシの葉に止まった。もう手を伸ばしても届かない場所にいる。私はその姿を見て、感動を抑えられなかった。

 私は門扉を開け、アゲハチョウの様子を見に行った。シラカシの木を見上げると、アゲハチョウは葉に捕まり、羽をゆっくりと動かしている。次はもっと高く飛翔するために、呼吸を整えているように見えた。しばらく見つめていると、だんだんと通行人の視線が気になり始めた。私は家に戻った。

(手の甲にのせたアゲハチョウへの、あの思いを、どうにか自分に向けられたらなあ)

 青一色の果てしない大空を飛び回るアゲハチョウの光景を想像しながら、そんなことを思った。ガラス戸の枠には、キラキラ光る半透明のサナギの抜け殻が残っていた。
 




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Opinions

  1. Post comment

    細やかな描写が、頭の中に情景を描かせてくれました。「あの思いを自分へ向けられたら」という一言に、たくさんのもどかしさが詰まっているように感じて、とても心に残りました。

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  2. Post comment

    タイトルがとても良いです。アオムシがどうなるかの行く末はいつでも境界線上だし、それは誰しも同じなのかもしれないと思いました。最後に蝶になったアオムシと外に出た主人公のシンクロもよかったです。

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