引きこもり文学大賞 本編部門14
作者:小木田十(おぎた みつる)
布団に入って目を閉じたけれど、眠れそうになかった。ボクはどうなるんだろうか。
唯一の同居人だったお父さんが動脈瘤乖離という突発性の病気で急死したのが二週間前のことだった。ボクは三十を過ぎてもずっと引きこもり生活が続いていて、事実上、お父さんに寄生して生きていた。お母さんは、ボクが小学校高学年のときに離婚して以来、会っていない。その後、別の家庭を持ったらしいと聞いている。
お父さんは、電気工事会社に勤めていたけれど、二年前に定年退職し、その後はシルバー人材センターに登録して、電気工事関係の仕事を個人で請け負っていた。
お父さんが残してくれた財産は、期待したほどはなかった。お人好しのところがあるお父さんは、旧友から頼まれて連帯保証人になり、背負わなくてもいい他人の借金を背負ったせいで財産の多くを失っていた。その旧友は雲隠れしたまま行方が判らない。
住んでいた賃貸マンションの契約者を変更する手続きが必要だと知らされたときは、途方にくれた。ボクが無職の引きこもりだと知られたら、新規契約を拒否されそうだった。
そんなときに、県北部の山間部に住んでいる伯父さんがやって来て、お父さんから受け取っていたという手紙を見せてくれた。
お父さんは、もし自分の身に何かあったときのために、あらかじめボクのことを伯父さんに頼んでおいてくれたのだった。農作業などの手伝いや雑用ぐらいはできると思うので、申し訳ないが住む場所を与えてやってもらえないか――そんな内容の手紙だった。
だからボクは今、高齢者ばかりが住む山間部の限界集落に連れて来られて、あてがってもらった六畳間の和室で布団をかぶっている。これからどうなるんだろうと怯えながら。
伯父さんとは、親戚の集まりなどで何度か顔を合わせた程度で、じっくり話をしたことがなかった。お父さんの兄弟は男三人女二人で、伯父さんは長男だったけれど、変わり者で兄弟の親戚づきあいをあまりしない人だった。若い頃は銀行マンだったのに、急に辞めてしまって伯母さんの実家があるこの集落に引っ越したらしい。その後、伯母さんの両親も伯母さんも亡くなり、今は一人で農作業などをやりながら細々と暮らしている。
伯父さんは六十代後半にしてはがっしりした体格で、顔は焼けていて、目が細くて両端が下がっている。朴訥とした人柄らしいことには安堵したけれど、それでもやっぱり、上手くやっていけるだろうかという不安は拭えなかった。
寝つけなかったのに、早朝に目覚めてしまった。スマホで確認すると、午前六時過ぎだった。二度寝は難しそうだったので、ボクは部屋を出て、トイレに行った。
トイレで用を足した後、また布団に入ってスマホでネットニュースなどを見ていると、ふすまの向こう側から「ちょっといいかね」と伯父さんから声がかかった。ボクは少し身構える気持ちになりながら「はい」と答えると、伯父さんは「ニワトリ小屋に行くから、ちょっとついて来てくれるかね」と言った。
ニワトリ小屋は家の裏の、畑の隣にあった。目の細かい金網が張られた小屋の中に、茶色い羽の地鶏が十羽ほどいる。伯父さんに続いて中に入ったけれど、ニワトリたちはおとなしくていて、騒いだりはしなかった。
「ほら、そこにある卵を拾って」と伯父さんはボクに木の器を渡した。「毎日、五、六個は産んでくれるんだ。拾ってここに入れて」
ボクが「はい」とうなずくと、伯父さんは「ちょっと他人行儀な返事だな。うん、でいいよ。タメ口でいこう」と言ったので、ボクは「あ、うん」とうなずいて、わらの上に産み落とされていた薄茶色の卵を拾った。少し温かくて、産みたてなんだなと実感できた。
鶏小屋の中を見回して、わらの隙間に隠れている卵を見つけては木の器に入れる。ボクは、何だか探し物ゲームをやっているような感覚になり、悪い気はしなかった。
六個の収穫だった。伯父さんが「明日からこの仕事、頼んでいいか?」と言うので、ボクは「はい」と答えてから「うん」と言い直した。すると伯父さんは「じゃあ、よろしく」と笑ってうなずいてから、「出入り口の施錠を忘れないように。じゃないとキツネやイタチが襲撃してくるからね」とつけ加えた。
朝ご飯は、伯父さんと一緒だと気詰まりしそうだったので、申し訳ないとは思いつつ、伯父さんが食べ終わって外に出て行った気配を室内で確かめてから、ダイニングに移動して一人で食べた。
おじさんは、食べ物をテーブルに用意しておいてくれた。山菜の天ぷらや小魚の南蛮漬けなどと共に、木の器に入った、ボクが集めた卵もあった。
ボクは炊飯器からご飯をよそって、朝ご飯を食べた。山菜の天ぷらも小魚の南蛮漬けも、びっくりするぐらいの美味しさだった。シメに食べた卵かけご飯はさらに格別で、こんなに濃厚な卵があったのかと、目を閉じて小さくうなった。
午前中はスマホでネットニュースや他人のSNSを覗いたり、ゲームをしたりし、昼食も、伯父さんが再び出て行ったことを確かめてから一人で摂った。
午後の二時過ぎぐらいに伯父さんが戻って来て、ふすまの向こう側から、「ちょっと釣りにつき合ってもらえるかね」と言った。ボクは釣りというものをしたことがないけれど、ゲームの釣りにはハマったことがある。本物の釣りとの違いに興味を覚えたので、ボクは「うん」と応じた。
歩いて十数分の場所に、幅十メートルぐらいの、流れが穏やかな川があった。道路のガードレールが手前にあり、向こう岸は崖になっている。
川を覗き込むと、数十匹の魚の影がさっと散るのが見えた。伯父さんは振り出し式の釣り竿を伸ばし、デイパックから出した釣り糸やハリなどの仕掛けを準備しながら、「ここはオイカワがよく釣れるんだ。今日はとりあえずオイカワ釣りをやろう」と言った。
「あの南蛮漬けの魚?」とボクが尋ねると、伯父さんは「ピンボーン」と笑った。
まずは伯父さんが手本を見せてくれた。竿を出すのは、川の段差の下。そこは上流から魚のエサとなる小さな虫などが落ちてくる場所で、しかも白く泡立っていて天敵の鳥などから見つかりにくいので、魚が集まるポイントなのだという。伯父さんは、小麦粉と卵黄を混ぜて練ったというエサをハリ先につけた。
まずは伯父さんが手本を見せてくれた。竿を軽く振ってハリ先が着水すると、蛍光色の小さなウキがすぐさま沈み、伯父さんは「ほい」と竿を立てた。すると水面から十数センチの魚が飛び出した。
オイカワはきれいな白銀色で、かすかにグリーンやピンクも入っていた。
伯父さんは釣ったオイカワを、保冷剤が入ったポリ袋に入れ、「ま、こんな感じだから、やってみて」とボクに竿を持たせてくれた。
最初の数回は、竿を立てるタイミングが遅れて、エサだけ食われて逃げられてしまったけれど、ついにそのときがやってきた。竿から手に、魚が暴れる感触が伝わってきて、ボクは「うわっ」と声を出した。釣りのゲームでは得られないリアルな体感だった。
ボクはその後も夢中になって釣り続けたけれど、だんだんウキの反応が鈍くなり、九匹釣った後はウキが沈まなくなった。伯父さんは「魚はまだ潜んでるけど、目の前で仲間が釣られたことに気づいて警戒してるんだ。しばらく待ったら、また釣れるようになるよ。魚はもの覚えが悪いから」と教えてくれた。
家に戻る途中、伯父さんは自身の話をかいつまんで聞かせてくれた。
伯父さんは大手銀行に就職したけれど、融資を打ち切った町工場が潰れてしまうような出来事を経験するうちに心が壊れ、あるとき布団から出られなくなったという。心療内科に行くと、うつ病と診断され、銀行を辞めて、妻だった伯母さんの故郷に移り住んだ。
一方のボクは、中学生のときにひどいいじめに遭って不登校になった。高校と大学には何とか行けたけれど、就職先の食肉加工会社は上司のパワハラがひどくですぐに退職し、完全に心が折れて、引きこもりになった。伯父さんはそういったことを尋ねたりしなかったけれど、多分お父さんからある程度のことは聞いているだろう。
「あくまでオレの経験による考えだけどさ」と伯父さんは言った。「他人からああしろこうしろと命令されたり、理不尽にののしられたり、そういう目に遭わないで生きてゆく方法って、あることはあるんだよ。オレはこっちに移り住んでから、結構楽しくやってるよ」
帰宅して、伯父さんから教わりながら、オイカワの南蛮漬けを一緒に作った。オイカワの内臓を手でかき出して、片栗粉をつけ、高温の油で二度揚げする。スライスしたタマネギや細切りしたピーマンやにんじんを、酢醤油や砂糖を混ぜて作った調味液に漬けておいて、そこに揚げたオイカワも投入し、混ぜて味をなじませ、そのまま寝かせる。
ボクは引きこもっていた間にたくさんのガンプラを作っていて、手先だけは器用だったので、おじさんからは「初めてにしては手際がいいじゃないか」とほめもらえた。
そうか。引きこもっていたからといって、何もしていなかったわけじゃなかったんだ。ボクは、ほんの少しだけど、自信みたいなものを持つことができた。
後で、山菜や川魚の種類や調理法なんかを調べてみよう。そういう知識は、ボクのこれからの人生ゲームの中で、有力なアイテムになってくれるはずだたから。
ここでの生活は、ゲームだと思えばいい。釣りや料理などの知識は、ゲームのアイテムだ。そのアイテムを手に入れ、ゲームをクリアしてゆくのだ。
ボクは、ちょっとだけれど、確実に心が軽くなったことを自覚した。
Opinions
Join the Discussion
コメントを投稿するにはログインしてください。
文章だけでこんなにも癒されたのは初めてです。誰しもが持っているであろう攻撃的な要素が一切感じられず、ただただ優しい世界に無心で浸れました。ありがとうございます。
Permalink優しすぎて、「いつかこの主人公も伯父さんのように、寄る辺のない誰かの受け皿になりそう」と考えてしまいました。