引きこもり文学大賞 本編部門16
作者:火星ソーダ
楠木正行(?〜1348年):
南北朝時代(1337年〜1392年)の南朝の武将。日本史上最高の軍事的天才であり、忠君愛国の模範とされる名将・楠木正成の嫡男。父である正成が「大楠公」とよばれるのに対して「小楠公」ともよばれる。四条畷の戦いにて戦死。
//桜井の宿の別れ
青葉茂れる桜井の宿場の夕方、楠木正成は、子の正行を呼び寄せて語りはじめる。
正成「正行よ、父は兵庫の国へ行き、彼方の浦で討ち死にすることを覚悟している。お前はよくここまでついてきてくれたが、今は早く故郷へ帰るのだ。」
正行「父上!いかに仰られてもどうして父上を見捨てて私一人で帰ることができるでしょうか、そんなことできません。この正行、年こそ若年なれど一緒にこの死出の旅路におともさせてください。」
正成「お前をここで帰すのは私情のためではない。私は討ち死にする運命なのだ。このままでは、世は逆賊・足利尊氏の思うままになってしまう。お前は早く成人して聖上陛下にお仕えするのが国の為だ。帰って国のため、陛下のため、親と一族のために逆賊を討て。それが忠孝の道だ。」
正行「父上!父上は悪逆非道の鎌倉幕府を打倒せよとの聖上陛下の聖旨を奉じ、挙兵して以来数々の武功を挙げてこられました。赤坂城では敵が塀に手を掛ければ、城壁の四方に吊るされていた偽りの塀を切って落とし敵兵を退け、千早城では30余万の鎌倉幕府軍を引き付けて釘付けにし、その間に日ノ本全土で幕府への反乱がまるで乾燥した野原に放った火のように燃え広がりました。父上は機略・策略に長けたお方。その父上が何故に死ぬと分かっている湊川の戦いに何の策もなく赴くのですか?これは何かの兵法の一環なのですか?」
正成「正行よ、聴け。世が乱れ逆賊が跋扈するのは何故だと思う。1000年前には平和な時代があった。その時代に戻り、平和を取り戻そうとは思わないのか。この世界の、この現代の混迷は建武の新政によってのみ解決できると私は信じている。民を救いこの世界に平和をもたらす…大いなる使命のために自らを捧げる…これほど尊く美しい夢は他にありえるのか。聖上陛下が死ねと命じられる。世界を守る礎となるため死んでくれと命じられる。武士としてこれほど名誉なことがありえるのか。」
正行「父上…しかし、しかし…聖上陛下といえども、そのご判断に間違いがないわけではないのではないでしょうか…?過ちを直言し正道へと立ち帰り、大事な臣下を負け戦で失わないようにお諫めするほうが国のためでは…?」
正成「お前はまるで、正しい行動というものがあり、数ある選択肢の中からなにがしかを選びさえすれば最良の結果が得られるとでもいうような過ちを信じているようにみえる。世には間違っていると知りながら選ばざるをえない時がありうるのだ。」
正行「父上!父上の理想を信じて我ら楠木一族はあなたについていきました。しかし、しかし…全てはあなたのエゴだったんじゃないのですか…?叔父上はあなたに従い両手を失い、伯母上は未亡人となりました。理想は何一つ実現できず、我らは嘆き、悲しみ、辱められています。これがあなたのしたかったことですか?これが楠木流兵法の神髄なのですか?みなが苦しみ、みなが嘆き、みなが恨んでいます。あなたはこの死霊と、生霊と、怨霊に本当にひるまず、おじけず、顔を伏せずに、これで良かったのだといえるのですか?」
正成「私はこの先1000年に渡り人類を唯々諾々と屈従し、凌辱され、屠殺される運命から解放したいのだ。ただ徳を保ち人間らしさを野蛮から守り、人類を次の世紀に送り出すための機略であり策略なのだ。そのための経世済民であり戦略・戦術・兵法なのだ。それを忘れるな。敵はこの人類の共同体を内側から打ち壊そうとする、己が目先の利害にとらわれ私利私欲にまみれた逆賊なのだ。」
正行「父上には言っていなかったことがあります…私は恋をしたことがあります。相手は弁内侍という侍女でした。好意を抱き、恋文を交換し、あるとき秋の嵐山に連れ立って出かけました。紅に色づいた紅葉が赤々と敷き詰められ、早い雪が点々と散る中、私は彼女と愛を交わしました。その時、あざ笑う声がきこえました。もっとやれよ、楠木の小倅と。いつの間にか、公卿たちが何人か大きな犬をけしかけて私たちを取り囲み、あざ笑い慰みものにしていました。その悪意と敵意に恐怖を感じ、私は彼女を守るために何もできませんでした。いや、むしろ屈辱感から、なにもかもを彼女のせいにして心のバランスをとりさえしたのです。後になって貴族たちが成り上がり者の楠木のガキを懲らしめてやったとうわさしてるのを耳にしました。つまり、誰が南朝を支えてきたのか、誰がそのために血を流したのか、そんなことどうでもいいことだったんです。」
正成「正行、正行よ。昔、その身に流れる血の由来をもって世界を統治した貴族階級がいた。彼らは文化的・精神的に選良だと自負し社会の最も最良の部分が彼らに属した。その貴族は今や世界の統治権について自信をなくし精神的にも衰退し退廃し腐敗しつつある…一方には暴力こそ人が人を支配する根拠だと漠然と思っている武士階級がいる。しかし武士もまたいまだ貴族に取って代わりこの世界を支配するだけの自信はなく、下級の官位の乱発と系譜の偽造で自分にないものを求めてやまないでいる。いまは不安定な時代なのだ。過去は終わったが、未来はまだ来ない。あぁ…今にして思えば、そもそも1000年前に戻ることができればという仮定が誤っていたのだ。そんなことが本当に可能ならば、あらゆることが可能だろうに…」
正行「父上…現実はこんなにも惨めで貧しく俗悪で、人はこんなにも陳腐な存在でいかにも空虚で哀れです。それなのに、あなたはまさに絶対。いかなる比較もありえない。その卓越した徳は比喩も表現も認識すらも許さない。ああ、それなのに…父上だって悪党と呼ばれ、戦いを生活の手段に選んだんじゃないんですか…?それなのになぜ…?堕落した貴族なんかにひれ伏し仕えるんですか…?私にはわかりません…」
正成「お前はまるで常に正しい側から物事を述べることができるとでもいうような錯覚をしている。世には間違っていて、理解を越えているにもかかわらず、なおもそのように語らなければならない時があるのだ。」
正行「父上!私には父上がなにを言っておられるのか、本当のお気持ちがどこにあるのかよくわかりません。父上には今までの期し方に一点の後悔もないのですか?」
正成「正行、正行よ…今人生最後の戦いにおいて、いかなる迷いも雑念も振り捨てられると思ってきた。いや、それがあらまほしきことと思ってきた。そして今までは迷わずにすんだのに…しかしこの危機にあってそれが嘘かまやかしであったと実感せざるを得ない…むきだしにされたのは己が何一つ自己の課題を解決できず罪を罪で誤魔化してきたという事実だった。所詮は今日もうまくやりすごした、うまく逃げられた。そんなことでしかないのかもしれないな。してやったり、ほくそ笑んでこの人生という驚異をいかに縮減できるか。死ぬるまでの瞬間、一秒一秒を、いかに目をつぶり、耳をふさぎ、自分が消えれば世界も消えるかのごとく信じる小児のように逃げ隠れできるか、そんな生き方しかしてこなかったと振り返る…いや、誰もがそうなのかもしれないが、私もその一人だったのだ…」
正行「父上…高邁な理想をもちながら誰もあなたを理解も共感もしませんでした。卑しい身分と軽んじられながら、どうしてあのような深い思想を抱くことができたのですか?私はあなたよりも低い次元でもがいてあがいています…」
正成「正行、正行よ。何もかも、戻ることなく、留まることなく、たゆたい、揺れ動いていく。全てが過ぎ去っていき、崩れ去っていくのに、それでも私はこの今にしがみついてしまう。「今」と言った瞬間になにもかもが零れ落ちていくのに…」
正行「わが父にして軍神・楠木正成よ。この暗黒の世界にあって私は光を求めずにはいられません。あなたの言葉はどこか別の次元、別の世界、別の空間からの呼び声に聞こえます。私にはあなたがわからない。あなたの言葉があまりにも異質でごつごつして何か光輝くものを隠し持っているので、私は恐れと共にしかあなたに面することができません。でもお願いします!死んでください!父上!死んでこの汚れた世界の中で唯一無二の清浄なる存在になってください!」
//四条畷の戦い
成人した正行は足利尊氏を倒すため挙兵し四条畷に布陣した。伝え聞くところでは、弁内侍は北朝方の大名に妾にされたと聞いた。それを聞いても何も思わなかった、と正行は思った。
それよりも、この両腕の静脈の下を毒蛇がはいずり回っているような慢性的な不快さに、自分にとって本当の気持ちをしゃべると湧きおこってくる吐き気に、何もかもが他人事のようにしかみえない解離感に耐えながら、正行は、生真面目すぎるほど真面目に南朝の復興のために働いていた。しかし、自分がどこか根本的になげやりで詰めが甘く、真摯になりきれないことを自覚してもいた…
昨日の作戦会議でもふと気付いた。あれ、後詰がいないな…まぁ、いいか…
そして今、戦場でその後詰がないために部隊は分断され寸断されてしまったのだった…
正行一族は近くの寺に逃げこんだ。自害を試みたのだが死にきれず…深手を負って苦しみながらフラフラと部屋からさまよい出ると、真紅の地に白いものが点々しているのが見えた。
あたかもまるで紅葉の敷き詰められた嵐山に早い雪が散っているようだ…しかし、今は春…正行はそこではっと気が付いた。自害した一族の者どもが腹を切って流した血の河に桜の花が舞っているのだと。
痺れながら薄れていく意識の中で、ぼんやりと罪を感じつつ思った…
弁内侍…お前を愛している…お前だけを愛している…