植物羊の命
ペンネーム:萩本あさひ
女は小さな植木鉢を持って歩いていた。鉢には植物、そしてその長い茎の先端にはミニチュアの羊がついている。羊は飾り物ではなく、本物の生き物だ。その生きた羊は、つながった茎ごと、メトロノームのように規則正しく揺れ動いていた。
女が鉢を草むらに下ろすと、羊は届く範囲の草を食べはじめた。手近の草を食べ尽くすと、茎をしならせてなんとか遠くの草も食べようとする。女は周囲の草がなくなるたびに鉢を移動させた。
そうやって女と羊は何年も旅をしてきたのだ。新鮮な草を求めて。羊を生かすために。
その様子を興味深そうに見ている高校生ぐらいの少女がいた。若者とは思えないほど活力のない、幸の薄そうな、暗い雰囲気の少女だ。女は少女に気がつき、一緒に羊を見ないかと声をかけた。少女は一瞬ためらったが、無言でうなずくと女の近くへ駆け寄った。少女は泣いていたのか、目が赤く腫れている。
出会ったばかりの二人は、無言で羊の食事を眺めた。右に左に茎をしならせるその様は、逆説的だが、自由にのびのびと動いているようにも見える。食べたい草を食べ、ひとくちふくんで美味しくないなら食べない。ミニチュア羊は、草の味にうるさいのだ。
「……あの、えっと、これ?」
あまり社交的ではないのか、少女は女の目を見ないようにしながら、ためらいがちに聞いた。
「この子はねぇ、「バロメッツ」っていう種類の、植物と羊が合わさった生き物なんだよ。「スキタイの羊」とも言うね。植物なんだけど、奇妙なことに光合成はしないんだ。茎についた羊がね、草を食べて生きるのさ。だけど植物には違いないから、動けなくってねぇ。かと言って、羊を茎から引きちぎったりなんかすれば、死んじゃうのさ。地面に生えてもねぇ、そこらの草を食べつくしたら死んじゃうっていうし。とっても難儀な生き物だよ。それに、とってもグルメでねぇ、ずっと同じ草だと飽きちゃうみたいで、いろんな草がないと、やっぱり餓えて死んじゃうのさ。だから私はこいつを鉢に植えて、旅をしてるんだよ。生かすためにね。おいしい草を求めてね」
少女は、この一生懸命に草をはむ儚い生き物に興味を持ったようだった。腫れた目をこすって、ミニチュア羊をよく見てみる。
「……じゃ、じゃあ、ほおっとけば死んじゃうんですか」
「そうだよぉ。ちゃんと食べさせてあげないとね。私、若い頃、中央アジアを旅しててねぇ、そんで出会っちゃったのよ。物珍しさで買ったんだけど、それからずうっとこの羊の保護者だよ。いろいろ旅をしてね、いろんな場所で、いろんな草を食べさせてきたんだよ。そうしないと死んじゃうからね。まったく、やれやれ、いろいろ困った羊だよ」
女は複雑な表情で羊を見た。少女はその女の顔を見て、自分の母親の表情のようだと思った。以前、自分が中学受験に失敗した時に母が同じような顔をしていたのを、少女は思い出していた。相手に期待を裏切られ、失望し、それでも手放すことができなくて悩んでいる人間の顔だった。
少女は、この女性は楽しくてこの生き物と旅をしているわけではないのだろうと思った。この無能な羊は、草だけでなく、女性の人生までも食べつくしているのではないか——。いたたまれなくなり、少女は長袖で隠している手首をそっと触る。そこには、リストカットの跡があった。
「……羊は、放置しちゃ、死んじゃダメなんですか?」
女は首を横に振る。
「引き受けたからにはね。いらないから捨てるなんて、できないんだよ」
「あの、その……。世の中には、気に入らないからって、ペットを捨てる人もいますよね?」
少女は、リストカットをしていることがバレてしまった時、ゴミを見るような目をした両親のことを思い出した。その時、自分は捨てられてしまうのではないかと本気で思っていたのだ。それでも日常は続いて、親は変わらず、少女は家を追い出されたりはしなかった。
「……それは、悲しいことだね。ペットってのは人間が勝手に作ったものだからね。いらないなら、どうして作ったんだって捨てられたほうは思うんだろうなぁ。どんな命も、作られた側が頼んで作ってもらったわけじゃないからねぇ。だから、引き受けたからには、途中で放っておくわけにはいかないんだよ。それがペットだって、羊だって、植物だってね」
少女はこの羊に対して複雑な思いを抱いた。愛されているわけではなく、ただただ生かされている。それで羊は本当にいいのだろうか。羊も女性もこれでは幸せになれないのではないか、と少女は思った。
「でも、でも、でも、お姉さんは、この羊のせいで人生めちゃくちゃになったんじゃないですか? やりたいこととか、あったでしょ?」
「羊を望んだのは私だしね。嫌っても怨んでも、羊を生かすしかないんだよ」
女は周囲に羊の食べたい草がなくなったことに気づき、鉢を別の場所に移した。女は長い間羊と付き合ってきたので、次にどの草が食べたいのか直感的に分かっていた。
「羊をかわいいと思ったことは……? あるんですか?」
女は静かに笑った。否定も肯定もせず、じっと羊を見ている。
「じゃあ、じゃあ、その……こ、殺したいと思ったことは?」
女は今度は声を出して笑った。
「あはは、あなた、どうしてもこいつが許せないみたいだねぇ。だけどね、私の意志なんて関係ないんだよ。かわいいと思ってたって、殺したいと思ってたって、命は命だ。さっきも言ったように、生かすしかないんだよ。単純だよね。でも、もし殺したとしたら、私はずっと亡くした羊にとらわれて生きることになるだろうね。一つの命を終わらせたんだから。それなら、今とあまり変わらないじゃないか」
少女は、女性の重荷になっている羊を見て、まるで自分のようだと感じていた。不器用、不細工、生きているのに向いていない自分に。そんな自分は両親の重荷になっていると少女はずっと前から思っていた。ここに来る前も、家族とケンカしばかりだった。それで泣きながら家を飛び出し、さまよっているうちに女と羊に出会ったのだ。
「でも、でも、そんな、お姉さん、ぜんぜん幸せそうじゃない、です。じゃあじゃあ、その、なりたかった職とかは?」
女は首を横に振る。
「結婚は?」
さらに女は首を横に振る。
「子供は?」
目を閉じて、女は首を横に振る。
「全部、壊されてるじゃないですか!」
少女がヒステリックにそう叫ぶと、女性は冷ややかな声で応えた。
「あなたは私に、どうして欲しいの?」
問われて少女は少し考えた。
「じゃ、じゃあです、こんなのはどうですか。えっと、お姉さんはこの羊の植物と一緒に、お金がなる草を育ててるんです。でも、植物羊がお金がなるたびに食べてしまうです。それでもお姉さんは、羊を見捨てませんか?」
少女は自分の妹のことを考えていた。明るくかわいくて甘え上手で、おまけに小さなころからモデルをしている。両親の自慢の娘だ。少女は、その妹と口論になって平手打ちをしてしまったのだ。妹が勝手に自分のお気に入りの服を着て、返さなかったのが理由だったが、両親はわけも聞かずに妹の肩を持った。それが親とケンカをした理由だった。
女は少し考えた。それから羊をなでながら言葉を紡いだ。
「そうだねぇ……。羊は食べるもんだから、仕方がないのかもね、食べられても。二つを離しておかなかった私の責任だね、それは」
「それじゃあ、羊はおとがめなし? そんなのって……」
「怒りはするだろうね。だけど、それで捨てたり、生かすことをあきらめたりはしないよ。羊は当たり前のことをしただけだからね。食べるっていう、当たり前をね」
その当たり前を羊はひたすら繰り返していた。鳴きもせず、疲れも見せず、まるで時計の針のようだ。少女はもう質問するのをやめ、ずっと羊が食事する様子を眺めていた。振り子のような運動は、見ていると眠くなってしまう。
「旅をしているとね、いろんな人に出会うよ。そして、だいたいの人は羊のなかに誰かの影を見るんだ。あなたはこの羊のこと、あまり良くは思ってないようだけど、いったい誰と重ねてるんだい?」
少女はうつむいたまま、家族とケンカをしてしまったこと、受験でつまずいてしまったこと、よくできた妹と比べられてつらいこと、自分が家族にとっていらない人間なのではないかと思っていることを女に話した。
「つまり、あなたは自分が羊だと思ってるってこと? あなたは私に羊を捨ててほしいみたいだけど、あなたはあなたを捨てたいの? それもちょっと違うか。何はともあれ、羊はあなたじゃないし、私は羊を捨てたり殺したりはしない。生きているから生かし続ける。それだけだよ」
女はそれだけ言って、植木鉢を持ってどこかへ行ってしまった。あとには少女だけが残された——。
その晩、女は交通事故にあった。女は救急車で運ばれて行ったが、病院で死亡が確認された。抱えていた鉢は割れてしまったが、羊が転がって行った先は街路樹の近くだったので、ミニチュア羊はそこに生えている雑草を食べて、なんとか生き延びた。
朝になり、たまたまあの少女が事故現場を通った。少女はすぐに羊に気づいた。羊はどうにか遠くの草を食べようと懸命に口を動かしている。少女はしばらくその様子を見つめていたが、意を決して、家から未使用の植木鉢を持ってきて、羊を植え直した。
少女は鉢を持ち上げると、学校とも自宅とも違う方向へ歩き始めた——。
それから羊と少女がどうなったのかは分からない。ただ、さまざまな場所で植物の鉢を抱えた高校生ぐらいの少女が目撃されているのは確かだ。そしてその植物には、肥え太った羊がついているのだという。
Opinions
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引きこもり的な心性と引きこもりの「親」の心性についての考察を含みつつ、小説としても完成度の高い作品であると感じる。
Permalink敢えて難点をあげるなら、最後の2行は(あくまで私の好みとしては)要らないかもしれない。とはいえ、まことに良作であると思う。
次回作にも期待しております。
羊を通して命(ここでは、単純な「生命」を指さず、心の中にたぎる「魂」の方が適切ですね)が女から少女へ引き継がれました。その後の少女がどう生きていくのか、興味が尽きません。「羊」というと、とある宗教では「罪を償ってくれる存在」と思いますが、女の旅は何かの償いの旅で、絶えた女の命が羊を介して少女に移った、そして少女が次の旅に出る、という解釈も面白いかもしれません。いろんな想像力をかき立ててくれるような作品でした。
Permalinkタイトルを読んだ時に「植物羊」は比喩表現だと思いましたが、本当に植物羊の話で驚きました。
Permalink命とは何か、生きるとは何か、を深く考えさせられます。命とは何かのためにあるのではなく、それだけで価値がある、ということに、このような形での表現方法があったとは。
命は善と悪の彼岸にあり、私たちもそうして生きているのでしょう。
女は植物羊を生かしていたのでもあり、植物羊によって生かされていた。そして、それは不可分なのでしょう。
感服しました。