郷愁
ペンネーム:まや
記憶とはとても曖昧なものであるがゆえに、愛おしいのである。
記憶のバックアップデータが取れるようになると共に脳から記憶の一時削除ができるようになった時代、多くの人々がそれを活用していた。
人々がとるバックアップデータの内容は忘れたい記憶、忘れたくない記憶と大きくはこの二つに分類される。例えば忘れたい記憶、それは自身に降りかかった嫌な出来事であったり恥ずかしい失敗などで、その記憶を脳から一時的にと言えど削除することができれば、その出来事はその人間にとってなかったことになると人々は気づいたのである。あくまでバックアップデータをとってからの一時削除になるので、つまりはいつか本人にその記憶を戻すことを前提としているのだが、大半の人間は二度と思い出すことなくこの世を去ってしまう。そして忘れたくない記憶、これは説明するまでもなく風化させたくないくらい幸せな記憶からいつかまた思い出したいと願う記憶のことである。いつでも思い出すことが可能なのであればと、脳の容量を少しでも空けるため人々は記憶のバックアップデータをとり一時削除をしていった。
記憶のバックアップデータを取ること及び脳から記憶の一時削除をする機関は市区町村で多少の違いはあれど、市役所などそういった役所であった。
とある市で役人として働く一人の青年は、そんな記憶たちが保管される大きなシェルターにて佇んでいた。もうすっかり持ち主に忘れられてしまった記憶は奧の方へやられて、なんともさみしそうにこちらを睨んでいる。
青年はいつからか役人となり人々の記憶を取り扱うこの職に着くことを夢見ていた。それは物心着いた頃からだったか、はたまた将来を考えるようになった頃からだったか。今となってはそんなことはどうでもよいことであった。今この場所にいることが、念願だったのだから。
ところで青年には一つの思いがあった。それは両親のことである。青年が己の両親について覚えていることと言えば、なにもなかった。顔や年齢、名前さえ知らなかった。両親がいるという事実だけが、青年の記憶の中で生きていたのである。両親のことについて何も思い出すことのできない青年は、記憶に関係するこの仕事に着けばなにか引っかかることがあるかもしれないと、そう考えていた。
だが何も思い出せぬうちに一ヶ月、二ヶ月と日は過ぎていく。半年を過ぎる頃には青年の心に焦りが生じ始めていた。青年は半ばやけになりながら人々の記憶を扱う職員としての特権を使い、役所内を隅から隅までくまなく舐めるように漁り始めた。もちろん、他の職員には見つからぬようにである。人々の記憶を扱う場というだけあり、そこはかなり厳重な体制で警備がなされていた。そこで青年は何十年間分と保管された手書きの文書を見つける。やっと一つのヒントにたどり着いたかもしれないと、喜ぶ時間も勿体なく感じた青年はさっそくそれを手に取る。ずっしりと重たい紙の資料は近代では珍しく、青年は手のひらに伝わる冷たい紙の感覚に驚いた。紙を見ることさえ初めてだったのだ。紙の手触りを楽しんだところで、ぱらぱらとやたら慣れた手つきで読み進んでいく。少し埃っぽい匂いがした。人々の記憶のバックアップデータをとるにあたった経緯や、その方法、国民の反応などが事細かに記されている。自分の両親の世代は調べ済みであった青年は、震える手でその代の資料に手を伸ばす。ほかの資料に比べ一際薄いそれは黄ばみところどころ破れながらも後世に情報を残そうと必死にもがいているように見えた。資料を開く。ぺり、と音が鳴る。そこにはただ一つ、こう書かれていた。
「……記憶とは、とても曖昧であるがゆえに、愛おしい」
古い、静かな資料室に青年の澄んだ声が響いた。走り書きで書き留められたそれは、まるで誰かに音読されるのを待っていたかのようだった。青年は細い指で筆跡をなぞる。不思議な感覚に襲われる。ぱたんと閉じると、埃が舞う。もとあった場所へと資料を戻すと、青年は静かにその場をあとにした。
けっきょく、わかったことといえば何も無かったわけであるが、青年はなぜか満足気な表情を浮かべていた。両親に関する記憶は相変わらず何も無く、さらに言えば余計に謎が深まったように思えたが、青年にとっては違った。あれは紛れもなく、両親が自分に宛ててのこしたものだと、考えていた。いや、確信を持っていた。なぜと問われると答えようがないが、そういう確固たる感覚があったのだ。
その後日のことである。古い『新聞』とやらの整理を頼まれた青年はまたもやあの資料室にいた。紙に触る二度目の機会となった。もとより文章を読むことが好きであった青年は古い『新聞』を読みふけりながら作業を進めていった。そこにはその日何が起きたのかが鮮明に記録されている。今青年が手に持っているものは記憶のバックアップデータをとり始めてしばらくがたった頃のものだろうか、人々はその生活に慣れ、日常化していると書かれている。ふと、端の方にやられた小さなコラムに見覚えのある文章があることに気がついた。
「……記憶とは、とても曖昧であるがゆえに、愛おしい…」
それはあの資料に残されたものと同じであった。前後の文章には、つまり要約すると人々は記憶を大事にするという概念を失いつつあり、我々役人はそれを守ることもまた、人々の記憶を守ることでもあるというふうなことが簡潔にしかし書き手の情熱を残しつつ記されていた。そして、あなたがなつかしいと思う瞬間はまだあなたの中にあるか?という問いで締めくくられていた。なつかしい、という言葉の意味を知らない青年は、コラムを書いた人物の名前に目を滑らす。青年と同じ苗字の持ち主であった。ということはやはりあの資料を書いたのは自分の親なのだ。青年の直感に間違いはなかった。だが、なつかしいとはなんだろうか。資料室にあった辞書を用いても、その言葉の意味はわからなかった。いくらページをめくってもその言葉はどこにも載っていないのである。とりあえず青年はコラムの作者の名をメモし、記憶のバックアップデータが保管されている場所へ向かった。
遂に自分の親の記憶へたどり着いたのだ。さすがに生年月日まではわからなかったが、名前さえわかっていればあとは手探りに探せばいいのでなんとかなった。他人の記憶を自分の脳へ移すことは、もちろん禁止事項であり、法律でも罰せられる。いまのところそんな事例は聞いたことがないので、青年がこの地球上で初めて、その禁忌を犯すのである。
「……………」
生唾を飲み込む。果たして、そこに真実はあるのか?確かめるほか、もうない。後戻りは、できない。青年は、震える指先に力を込めて、一つの記憶に手を伸ばした。
あたたかかった。
美しい光のなかで、踊っていた。
垣間見えるのは、両親と、幼き自分だ。
この感覚をなつかしいというのだと、誰が言う間でもなく悟った。
青年は涙を流して立ち竦んでいた。青年を包むのは二つが一つになった愛だった。もうこれ以上は背負うなと、誰かの声がした。声に従い、記憶から手を離す。
青年は罪を犯し愛となつかしさを知った。そこに後悔はなかった。満たされたこころで、両手を頭の上へ掲げて銃を構える兵士たちがいる出口へと、青年は向かった。
Opinions
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昨今、人との繋がりの思い出はSNS越しに、視覚的な思い出はスマホカメラ越しに、という時代になりました。本作品を読んでいると、先の「◯◯越し」での記憶の保存は正確だけど、温かさや愛おしさはないなぁ、と気付かされます。あえて指摘しますと、現状の俯瞰から精神論に帰結させる際に、もっと立体感があるといいなと思いました。青年の他にもう1人、現状を肯定する人物が登場すると物語が立体的になり面白いのかな、と勝手に考えてみました。青年が向かった先に何が起こるのか、物語の展開が楽しみにです。
Permalink非常に繊細で上場性豊かな、それこそ”記憶”そのもののような儚さが魅力的な作品である。特に視覚的な美しさは印象的であり、良質なジュブナイルや短編アニメーションの持つそれと比較することもできるだろう。やや感傷的に過ぎる部分はあるが、抑えた筆致で描くことでリアリティを維持しでなんとか全体をまとめ上げることに成功しているし、反対にクライマックスでは敢えて赤裸々な内面をあらわにすることである種のエクスタシーを表現している、とも評価できる。
Permalinkそして主人公は記憶の中で両親と、あるいは自身の幼少期との再開を果たすが、彼はこの行為で罪と引き換えに何を得たのだろうか。彼だけではなくこの世界の人々は皆、過去とのつながりを失っているのだろうか。失われたものは常に美しく、選ばれなかった選択肢は常に魅力的なものである。その背徳感がこの作品の読後感を幅広く、複雑なものにしている。
冒頭の丁寧な語り口に、まず好感がもてる。
Permalink最後の結末部分の、哀愁と相半ばする優しい読後感も、個人的に好みである。
欲をいえば、前半に比べて後半があっさりした感じがあり、もう少し後半の描写に重点が置かれるとなおよかったかもしれない。
次回作にも期待しています。
今の情報技術の進歩を考えると近未来的とも言えるSF作品であるが、テーマのわかりやすさを逆手に取ったように、SF世界の詳細は省略され、展開の速度が上がっているところが超短編作品という規格に合っていて面白い。
Permalinkテーマ的に先の読める話でもありながら、情報の出されるタイミングもテンポが良く心地良い。
終盤の恍惚感。それを覆す最後の一文の落差が小気味良い。
SF世界の設定がやや説明的で表現が硬く、練られきっていないようにも感じる。テーマ、世界観、展開は非常に面白いので細部に磨きをかけるとより鮮やかな作品となる気がする。
某作家のショートショートのような、完成した小説、と思いました。
Permalink自分の知らない記憶も含めて(むしろその方が多い?)自分が成り立っている……私たちの見えているものはほんの一部、ということを考えました。
文章で読めない部分(読者が想像する部分)
Permalinkへの残し方が自分にとっては非常にほどよく
頭の中でその情景を浮かべながら主人公の心情が
滲むように広がり、なんとも気分良く読める作品であると思います。