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文学大賞 本編部門22 手紙 作者 悩天

引きこもり文学大賞 本編部門22

作者:悩天

 僕が外界とのかかわりを絶ってからちょうど三年が経過しようとしていた。僕もずいぶん痩せた。
 だぼだぼな服を着て小さな窓から時折見上げる空の移り変わりから四季を読み取る。ラジオを聞き新聞を読む。ささやかな時間が僕に時の流れを教えてくれる。生活は淡白で単調でとてもゆっくりだから、こういったことでもしないと自分の存在自体に疑問を持ち始め、希死念慮に苛まれてしまう。
 小さな棚には折り紙のサイズほどのスチールの箱が置かれていて、僕はそれを取り出した。
 中には手紙がある。送り主は母だ。この三年間で十数枚、母との間に交わした。もう母とは言葉を何年も交わしていないし、白状すると顔さえも記憶から薄れかけている。
 それは文通といったものなどではまったくなかった。手紙とは言うが、ほとんど日記を僕に報告するような類だった。僕に説教めいたことするお門違いなものはあまり寄越さなかったのはありがたかった。
 僕は三つ折りにされた手紙を開く。
 
 
 素子が亡くなってから、皆変わってしまいましたね。理は素子と本当に仲が良かったから、自分の半身が失われた気分だったんだと思います。理には大変な思いをさせてしまいました。悔やんでも悔やみきれません。
 お母さんには天国のことは分からないけど、素子は優しいからきっと理のことまで心配していると思います。
 写真、同封したので大事にしてください。
 
 
 小さく丸みを帯びた文字で紙の半分にも満たない数行の文だったが、下半分には涙と思しき痕がいくつもあった。はじめの方の手紙にはたびたびこの痕があった。母はもともと文章を書くのが苦手な部類だから、必死に綴ったのだと後に思う。
 写真は幼いころの僕と素子の水族館前でのツーショットだった。僕はどこか不機嫌そうだが、素子は無邪気にポーズをしている。その写真は僕に様々な記憶を想起させ、ずっと眺めていると目頭が熱くなった。
 僕の妹の素子が死んでから、人生が狂った。僕だけじゃない。色んな人の人生が変わった。
 僕と素子は仲が良い兄妹だった。昔の僕は変にひねくれていたが、素子は生まれ持っての素直さでどんな人の心もこじ開けてしまって、それは僕も例外ではなかった。熱にあてられた氷のように途端に僕のこころは解け、あっという間に素子が大好きになった。兄妹とはいえ、その関係性は親友に近かったと思う。そんなだから、はじめ素子が死んだと知っても受け入れることはできなかった。四肢を失うよりも耐え難いことだった。だって僕は妹も親友もどちらも失ったのだから。
 重なった手紙の束から何気なく手に取った一枚の手紙を読み返す。

 この頃、理と素子の記憶を思い出すことがよくあります。
 夏祭りで、理と素子はお化け屋敷に二人で入りましたね。理は決して入りたがらなかったけど、好奇心旺盛な素子はどうしてもと譲らなかった。理は仕方なく付き添って入り、結局二人とも大泣きで帰ってきましたね。そういえば、遊園地のときもそうでした。ジェットコースターでも同じやりとりがあって、また二人で乗っていきました。このときは、素子はもう一度乗りたいとはしゃいでいて、泣きそうな顔だったのは理一人だけだったけれど。
 些細なことで喧嘩しているなと思ったら二人一緒にどこかに出かけて遊んだり、じゃれあったり、また喧嘩したり。
 今思うとそんなあなたたちに救われていました。あの頃の二人の元気さがとても懐かしくて切ないです。
 理はまだ本は好きですか? まだ読んでいますか?
 理は本好きで、でも素子はもっぱら外に出てかけまわっていたのをよく覚えています。兄妹だけれどあなたたちは顔もそれほど似ていないし、性格も真逆のようなのに二人でいないのが不自然というほどでした。理と素子が互いにいい方向にひっぱりあっていたんだと思います。素子が誘えば理は外に出て遊び、理が話しかければ素子は二人して一緒に本を読んでいましたね。お母さんも数十年生きているけど、こんな不思議な関係はあなたたち二人以外にみたことはありません。
 素子も寂しがっているでしょうから、二人でまたお墓参りできることを願っています。
 
 
 素子との思い出。そんなものはアルバムがいくつあっても足りないほどある。僕にとっては、素子との時間一瞬一瞬がかけがいのない思い出だった。母も父も知らない僕と素子だけの記憶が山のようにある。
 親戚の子供たちとやったかくれんぼで、いつまで経っても見つからない素子を僕があっさり見つけてしまったとき。
 素子と二人で密かに橋の下で野良猫の世話をしていた夏休みの日々。
 振り返ってみるに、僕は母似、素子は父似なのではないかと思う。
 母はもともと、優しいというより気が弱くて押しに弱いというような性格をしていて、子
供にだって消極的に接していた。父がまだ生きていた頃にはひたすら家事をしてせっせと働くだけで、父の一馬力と僕と妹の神秘めいた絆で暮らしてきたようなものだった。今思えば、母自身の意思は薄弱で、父に対してはある種の依存状態にあったともとれた。
 それが、あの厳格だけれどもどこか人間味があって憎めない父が事故で死んでしまってから、不思議と明るくなり、僕らにもおせっかいを焼くようになった。通夜では精気のかけらもないほど衰弱してそのまま父の後を追ってしまいそうな勢いだったのに、その数か月後には、私がなんとかしないといけない、という風な気持ちが芽生えたのかもしれない。勘繰るなら、それは奥底の思いを隠すために被った仮面だったのかもしれないが、母は気丈さを持つようになった。人が変わったようだった。
 母に対しては申し訳ないと思う。
 素子が死んで、続けて僕も今はこんな状態になってしまったから、母はまた萎れてしまった。本当は僕の心配などしている余裕はないはずだ。それが手紙にもありありと現れている。けれども、母を気遣えるほどの冷静さも僕は持ち合わせていなかった
 続けて、もう一通手紙を開いた。全ての手紙の中でも段違いに文量があった。
 
 
 お母さんは最近、お友達に誘われて教会に行ってきました。こういうところははじめてで不安でしょうがなかったのですが、皆さんとっても優しくて驚きました。
 ある方は、はじめて会ったというのに昔から友人だったみたいにお母さんのことはなんでも分かってしまって、いろんな悩みを精いっぱいきいてくださって、本当に救われる気持ちになりました。聖書を読んで自分と向き合うこともいいことだと、神父様はおっしゃいます。
 時々、お母さん自身の過ちについて考えます。罪について考えます。
 お母さんは昔から周りの空気を読んで足並みを合わせて、いえ、むしろ脚はとろくて合わせようと必死になっていたぐらいでしたけれど、そんな風にして暮らしてきました。自分でなんとかしようと思って動いたことはありませんでした。
 そんなだから、今になって本当に自分が母としての責務を全うできたのかと自省します。素子があんなことになってしまう前に、お母さんがもっとちゃんとしていれば、素子が死んでしまうことも理に苦しい思いをさせてしまうこともなかったのかもしれません。そう思うと、自分の不甲斐なさとそうして生きてきたことをよしとした自分が嫌いになります。
 だから、なんてことは言いませんが、理にも自分の行いと罪についてじっくり考えて欲しいんです。お母さんにも方法は分からないけれど、ちゃんと贖いを――
 
 
 ちょうどそのとき、僕の番号が呼ばれた。すぐに手紙を畳んで部屋を出た。
 冷たい無機質な廊下を進んでこれまた殺風景な部屋に案内される。長机の向こうに人形みたいな顔をした大人が四人座っていて、僕は距離をあけてぽつねんと置かれているパイプ椅子に座った。
 相手は眼鏡をくいとあげて、
「永井理さん……ですね」
「はい」
 僕は答える。
 それから、資料をぺらぺら捲りながら頭をかいたり首を捻ったりした後、僕に簡単な質問を投げかけ、僕はそれに淡々と答える。そして最後に、さも口にするのが苦しいという風な表情を浮かべて、
「ええ……では永井さん、現在新井勉さん並びに遺族の方々に対して謝罪の気持ちはおありですか?」
と確認してきた。
 僕はすっと瞼を閉じて深呼吸をした。当時のことを思い出していた。
 素子は二十三歳で僕は二十五だった。素子はその快活さで順調な生活をしていたはずだった。大学のときから同棲を続けているという新井勉との結婚を知らされ、自分のことのように喜んだ。笑顔を絶やさない素子が新井勉にだけ向ける顔は、ずっと隣にいた僕でさえ見たことのないものだった。それでもう諦めるしかないと思ったのだ。
 だからこそ、新井勉が素子を殺したときの僕は怒りで満ちてどうしようもなかった。素子はからだを何箇所も包丁で刺されていた。夕飯を作らなかったというのが動機らしいが、日常的に暴力があってそれがとうとうてっぺんに達したというのが実際のところだった。その場ですぐに殺してやりたがったが、新井勉が牢に閉じこもってしまって叶わなくなった。
 それから十二年後、新井勉が出所するまで僕のほとぼりは冷めなかった。僕はその機会を虎視眈々と狙っていた。
 新井勉のアパートに押し入り、縄を首にかけ力いっぱい締め上げた。思ったほど爽快感はなかった。感触は、まだこの手に残っている。
 そして、次は僕に番が回ってきた。
「僕は……妹を救ってやれなかったことは後悔しています。けれど、新井勉をこの手で殺したことは一度も後悔していないし、せずにいたらそれこそ後悔していたと思います。きっと――」
 悪手なのは分かっていても、ここで口先だけでも罪を認めることはできなかった。僕は自分の行いを肯定しないといけなかった。
「きっと、おそらく僕がこの先省みることもないでしょう。神に誓って」




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