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文学大賞 本編部門31 あるがまま 作者 ダイタレイジ

引きこもり文学大賞 本編部門31

作者:ダイタレイジ

 
 
 
私は怠惰な人間だ。
 
 
私はそれなりに若く、健康で、容姿も悪くない。(昔はジャニーズ系だと良く言われた。)
勉強すればそれなりに成果を出すことが出来るし、運動神経もそんなに悪くない。
手先の器用さは平均以下だと思うが、練習すれば問題なく行えるレベルだ。
こと音楽に関しては平均以上に出来る方で、今でも作曲と演奏を嗜む。また、飛び道具的な特技としてジャグリングなども数年前に習得した。
性格がシャイであることは認めざるを得ないのだが、普通に挨拶も出来るし、ジョークも好きである。コミュニケーションに挫折したことは無い。(否、認知症患者と障がい者とのコミュニケーションに限って言えば、挫折したことはある。)
つまるところ、私には極端に苦手な物事が殆ど無いと言っていいと思う。

だが、私はやらなかった。無意識的に青春を葬った。(それは、机の中にしまい込んだまま期限切れになった切符を想起させる。)
率直に言って、私は過去の行いを後悔している。
私には経験が足りない。過去と呼べるようなものが無い。存在するそれらしきものは、空疎なフォルムに過ぎない。
勉強、恋愛、労働、道楽など、「その時に」やるべきことがあった。
しかし何よりも、努力すること、不快な現実から逃げずに乗り越えていく経験を積まなかったことを私はとても後悔している。
逃避しか知らぬ腰抜けの日々はさも早送りのようであった。ふと気づいたころにはもう既に30代である。なんとも虚しい。
と、後悔の念を連ねたものの、今からでもやろうと思えば多くのことが達成可能であるとも私は思っている。

「元気があれば何でもできる」と言ったのは、昨年亡くなったプロレスラーのアントニオ猪木であったと記憶する。私はプロレスに疎い上、彼が好きなわけでもないのだが、その文句を聴くたびに妙に首肯している自分がいることに気付く。
兎も角、少なくとも私は(それなりの)能力を持たせてもらった状態で生まれ育ってきたことには間違いない。
「持たざる者」では、ない。
私は、絶望するにはどうにも恵まれすぎている。
よって、童貞に終止符を打つことも可能であるし、就職して正社員としてバリバリ働くこともできるだろう。アングラ映画の監督になって数作ほど拵えた後に蒸発することも、出家して禅僧になったものの挫折して猫カフェに入り浸る日々を過ごすことも、はたまたパリの保守的なサロンに出入りして得意気にシャンソンを歌うことすらできるかもしれない・・・・
私には十分に可能性がある。(これは綺麗事でもなければ、シニカルな文句でもない。単なる事実である。)
では、何が私を引きこもらせているのか、と言えば、怠惰な性質に他ならない。
そして惰性の回路にそれは組み込まれ、次第に洗練された堕落は完成する。
それ以外に思い当たる節は何も無い。
 
 
怠惰とは、合理性である。
惰性とは、合理性である。
 
 
不快な物事を遠ざけること。
自動化すること。
全てはエネルギーの浪費をしないために。
それは本能そのものに思える。
本能は野生に由来する。つまり、自然の摂理だ。
あらかじめ我々に埋め込まれたプログラム。
人間だって動物の端くれであるから、この理からは逃れられまい。

私はいつしか「引きこもることが許されること」を学習してしまったのだろう。
いたずらっ子が大人たちの怒りの沸点を探り、試してくるのと同様の手口で。
親の憐憫の情につけ込んで、私は「人」として誤った選択をしてしまった。
私の理性と倫理は、動物的な欲求にあっけなく敗北した。
それは、あまりにも偉大で、強力で、力の差は歴然としていた。

人間はその理性によって、怠惰を制御する。
長期的な視野に立てば、外に出て活動するメリットと、引きこもり続けることのデメリットくらい容易に理解できる。そしてそれを天秤にかけ、判断することも難しいことではないだろう。恐らく、小学生でも十分に解るようなことではないか。
理性がないと、短期的な視野に陥る。
目前の不快を遠ざけることだけに執着した末路が現在の私だ。

(私のようなタイプの)引きこもりは何らかのストレスによって理性を失い、冷静な思考を失い、長期的な視野を失ってしまったのではないか、と私は思っている。(ちなみに、私は思春期特有の人間関係によるストレスが最初の引きこもる動機となった。)
ストレスは冷静な思考を妨げる。その思考は歪んだバイアスを生む。バイアスだらけの主観に依存した思考はストレスを量産し続け、そこから生じるエネルギーは循環の速度と強度を増幅していく。だから、いつまでたっても抜け出せない。
私を救えるのは、恐らく他者である。(ひょっとすると、あなたかもしれない。)
他者の言葉や思考は雑音であり、また天啓のようでもある。
兎にも角にも、異物を取り込まねば始まらないのだ。
リスクを負わねばリターンも無い。そしてそれは「外界」にあるのが常とくる。
内なる世界を覗き込み、目を凝らせど、目を凝らせど、まるで何もない。

人は外圧に拠らなければ変われないのかもしれない。(まるでどこかの島国のことのようでもあり、余計に複雑な思いになる。)
気候変動、未知の外敵、こういった半ば暴力的な要因が変化を促していく。
その突きつけられる新たな環境に対して最適な形を目指し、物事が「自動的に」選択され、変化していくのも抗えない理だ。

なるべくしてなった、私のこの姿、そして現状。
私は、一体何に順応してしまったというのだろう。
私の人生とは、自らの手を汚すことを頑迷なまでに拒み、逃避を繰り返し、「迷惑をかけても許されるであろう人物=弱者」を見極めて選択し、その者に自らの責務を肩代わりさせてきただけではないのか。
そうした営みを惰性的に続けていくことが、人として善い行いのはずがない。
それはまるで人の世に蔓延る搾取の構造そのものではないか。

自然というのは本当に厳しいもののようだ。
私の眼前に広がるそれは、あまりにも大きすぎる。




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